エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

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文脈における意味と原則の適用の両方を考えて聖書を読む

 jw.orgに掲載されている、「ギレアデ第133期のインタビュー」という動画にとても興味深い言葉が出てきました。
インタビューに答えた兄弟は、ギレアデ学校で、聖書を文脈における意味と広げられた原則の両面から考えることを教わったと語っています。
ギレアデ学校のカリキュラムの詳細は公表されていないので、部分的な情報から推測するしかないのですが、聖句の意味を二つの視点から考えるというこの言葉は、とても良いヒントを与えてくれています。

 エホバの証人はよく、聖書の原則を強調します。
単に、聖句を字句通りに解釈するだけでなく、数千年前の言葉をどうやって現代に当てはめようかとか、ローマ社会のクリスチャンに与えられたアドバイスを日本に住む自分にどう当てはめたら良いだろうか、といったことを考えながら聖書を読んでいます。
宮原崇兄弟が、コラム「キリスト教と戒律主義」の中で書いておられるように、これは、エホバの証人に特徴的な聖書の読み方です。
以下、宮原崇兄弟のコラムからの引用。(聖書の言葉は新世界訳聖書から口語訳聖書に置き換えています。この記事の聖句は、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。)

エホバの証人が考えたのが、“原則”という概念です。これは新しい契約の霊(精神)と律法(戒律)との間の橋渡しをする概念で、エホバの証人の性質を決定づけるきわめて大きな要素となっています。
 よく、『エホバの証人には守るべきたくさんの戒律がある』とか『エホバの証人は戒律主義の宗教だ』といったことが言われますが、実際には、そして厳密には、エホバの証人にとってそれは戒律ではなく『原則の適用』です。たとえば、エホバの証人の生徒が学校で格技の授業を拒否する場合、それは『格技はしてはならない』という戒律があるからではありません。新しい契約には『平和』という原則があって、それは心の根底から平和思想を抱いていること意味していますから、それを適用すると格技はできないという理由によって、エホバの証人は格技を拒否します。そして、学校で格技の授業を拒否していながら、別のところで人の悪口を言ったり馬鹿にしたりしているということがあるなら、それは格技がどうとかいう以前の問題であって結局のところ戦争をしているに等しいと考えます。このように、エホバの証人は“原則”という概念の導入によって、新しい契約の求める高い精神性になんとか到達しようとしています。

 エホバの証人の間では、自分の頭で考えて聖書の原則を適用することが奨励されています。聖書に書かれていないようなことについて、さらにはエホバの証人の教義書で扱われていないことについて、そうするように求められています。実のところ、書かれていることよりも書かれていないことのほうが多いとエホバの証人は考えます。聖書に書かれていることをただ実践するだけでは不十分ですし、教科書も参考にしかなりません。大きな事柄については、エホバの証人の統治体が規則を決めたり見解を述べたりしますが、そういった指導が及ばない小さいことは数え切れないほどあり、それらについては信者一人一人が自分の頭で考えて判断します。

 エホバの証人として聖書を教わっていると、聖書のさまざまな教えは原則の理念に置き換えながら理解できるということが解るようになります。この例も見てみましょう。
 『寄付はいくらといわず寛大に行うべきだ』という新しい契約の考えは、聖書の中でこのように表現されています。

 『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。』´コリント第二9:6。

 ダイレクトな言い方で『惜しみなく寄付をする人は……』とは書かれていません。ここでエホバの証人が理解するのは、まず、与えること全般に関する原則があって、その原則の適用として、ひとつに寄付に関する話があるということです。聖書はここで寄付の話をしているのですが、この教えをエホバの証人はあらゆることに応用します。日常生活や信仰の実践に関係したさまざまな事柄に適用され、その中には寄付に関することもある、といった具合です。

 ある意味、エホバの証人は聖書の言葉を字義通りには読んでいないと言えます。ほとんど置き換えながら読んでいます。これはエホバの証人独特の聖書の読み方で、他のキリスト教派にはあまり見られないものです。(全く見られないということはもちろんありませんが。)

 エホバの証人は、聖書に書かれている法を守るだけでなく、法に込められた精神を読み取り、それを実践したいと願っています。なぜなら、聖書は2000年前に完成し、私たちが生きている今の時代に、聖典が書き加えられるということはないからです。
今でも、聖書時代のように、天からエホバの声が聞こえて、「パンデミックが始まったからステイホームしなさい」とか、「もうマスクはしなくていい」とか、随時指示が与えられるのであれば、それに従えば良いのですが、今の時代、そのような方法でクリスチャンを導くことはしない、と聖書自体が述べています。(コリント第一 13:8後半-10)
聖書が完成した後は、エホバが随時天からの声で指示を与えるようなことはなくなりました。(当ブログの「奇跡(超常現象)はそれが真の宗教だという証拠ではない」という記事もご覧ください。)
ですから私たちは聖書を調べて、エホバのお気持ちを汲み取って、それを実践する必要があります。
この点で、原則の適用という考え方は有益です。

 ところがです(前置きが長くなりました)、このような原則の適用という考え方には落とし穴があり、聖書の言葉の意味を拡張し過ぎて聖書から逸脱してしまうという危険を孕んでいます。
そこで、先日の記事、「聖書の原則を正しく当てはめるには」に書いたように、一つの聖句だけを導きに決定を下すのではなく、原則の優先順位を考えたり、聖書中の物語から学ぶということが重要になってきます。
原則を拾いながら聖書を読むのはとても良い読み方ですが、それだけでは、聖句の本来の意味から逸脱してしまう危険があります。

 ではここで、この記事のテーマである、「文脈における意味を意識する」という点について考えてみましょう。
まずはクイズです。
以下の聖句は、それぞれの文脈の中で、どんなことを言おうとしているでしょうか。
まずは聖書を開かないで、ちょっと思い出してみてください。

聖書クイズ´文脈における意味を思い出そう

第1問: ヘブル3:4
 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。

 私たちはよく、この聖句の原則を拡張して、エホバが全てのものを造られた創造者である、ということを示すために引用しますが、この聖句の本来の意味´文脈における意味´は何でしょうか。
パウロはここで、進化か創造か、ということを論じていたわけではないはずですが……。

第2問: テモテ第二3:16
 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 ここで言う、「聖書」とは何でしょうか。このころはまだヨハネ福音書などは書かれていなかったはずですが……。

第3問: コリント第一14:40
 しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。

 この言葉も、かなり広い意味で適用される言葉ですが、パウロがここで言わんとしていたのは何のことでしょうか。何が問題になっていたのでしょうか。

答え合わせ

 それでは答えです。

 おそらく、1問目が一番難しかったと思いますが、パウロがこの文脈の中で言わんとしていたのは、「イエスはモーセより偉大であり、キリスト教はユダヤ教より優れている」という点です。
モーセは神の家(イスラエル国民)を託されたが、家の従者に過ぎなかった、しかし神の子であるイエスは家(クリスチャン会衆)の主人である、ということです。
従者は家より下ですが、主人は家より上です。
4節の言葉は、その文脈の“ついで”という感じです。
ユダヤ教徒であれクリスチャンであれ、神が最も偉大な方であることには異論はないでしょう。その点に言及しているのが4節です。
ユダヤ人社会からの迫害を受けていたクリスチャンを励ますために、パウロはユダヤ教よりキリスト教のほうが優れている点を挙げ、信仰を強めたかったのです。
(「ものみの塔」1998年7月15日号の「信仰の欠如に気をつけなさい」という記事の10節をご覧ください。)

 ほかにも、古代の神殿と霊的神殿の対比、古代の大祭司とイエスの大祭司としての役割との比較など、難解ですがなかなか深いことが書かれている文脈ですので、時間があれば調べてみられるといいと思います。

 2問目にいきましょう。
パウロがテモテ第二3:16で述べていた「聖書」とは、一つ前の節を見れば分かりますが、「テモテが幼いころに親しんでいた聖なる書物」のことです。
基本的には旧約聖書のことで、もしかするとマタイ福音書も含まれていたかもしれません。
キリスト教世界の教派の中には、「私は新約聖書しか読みません」とおっしゃる方もおられるのですが、テモテ第二3:15-16を示すと、旧約聖書もクリスチャンが導きを求めて頼るべき聖典に含まれるということを示せます。
この点は、「目ざめよ!」2010年3月号の「聖書全巻は今でも役に立ちますか」という記事で説明されています。
そして、この聖句は、原則として引き延ばして適用した場合、当時まだ書かれていなかったヨハネ福音書や黙示録を含め、「今私たちが手にしている聖書全体」に当てはめることができる、というわけです。

 3問目は、聖書を開けばすぐ分かると思います。
ここでパウロが言っていたのは、預言や異言のことで、秩序立って行うべきなのは集会の進行についてでした。
しかし、この言葉はものみの塔出版物の中で、ありとあらゆる分野に広く適用されています。

 このように、よく原則として引き合いに出される聖句が、その文脈においてどういう意味なのか、その言葉が書かれた当時何を意味していたのかを知ることは重要です。
例えば、ペテロ第一3:1には同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさいとあるけれど、その手前にあるイエスの手本は、妻の夫に対する従順とどう関係があるのだろう、パウロは妻とイエスを比べて、具体的にどういう共通点に着目していたのだろう、などと考えながら聖書を読むのは良いことです。

 新世界訳聖書のスタディー版の注釈は、この点で役立ちます。
スタディー版の注釈は脱線し過ぎず、原則として広げて適用するというよりも、聖句そのものの意味を説明しようとするものですので、まずは文脈における意味をしっかり把握する、という点で有用です。

両極端に走らない

 エホバの証人独特の、聖書の原則を拡張して当てはめるという読み方は、信仰を実践するうえでとても良い方法です。
しかし、聖書から逸脱してしまうリスクがあります。
ですから、「書かれた当時にその文脈の中でどういう意味を持った言葉だったのか」を押さえておくことは重要です。
そこを押さえないと、抽象的な原則を抽象的に捉えて無制限に適用してしまう、地に足が着いていないふわふわした聖書解釈をしてしまいかねません。

 他方、カトリックやプロテスタントの神学書では、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語やラテン語など、原語に関する専門的な情報や、その聖句が書かれた当時どういう意味を持っていたかという背景情報についての詳細な解説がある一方で、聖書の教えの現代への適用は全く語られていなかったりします。
私たちはよく、「タバコを吸ってはいけないなど、聖書のどこにも書かれていないではないか」などと言われたりしますが、現代への適用を無視して「書かれた当時の意味」だけを読んでいると、このような聖書の読み方になってしまいます。

 天気予報を見るとき、気象予報士が、海水が蒸発して空気中を上昇し、塵と混じって雲を形成し、雲の中を上下しながら水滴が大きくなり、雨となって降ってくる経緯を、難しい専門用語で長々話しているとしたらどうでしょうか。
私たちが知りたいのは、そういうことではないはずです。
明日は傘を持って行ったほうがいいのか、布団を干しても大丈夫なのか、知りたいのはそういうことです。
原則の適用を考えず、読者に行動を促さない神学書は、正確な専門知識が書かれているとしても、人生の導きにはなりません。

 最初にも述べたように、聖書は2000年前に書き終えられました。今私たちが生きているこの時代に、これ以上聖典が書き加えられることはありません。
ですから、私たちは聖書を読むとき、現代への適用を自分の頭で考えなければなりません。
聖書は、良いことも悪いことも、全てを列挙しているわけではありません。
正しいことはこれとこれとこれなど、悪いことはこれとこれとこれなどという書き方をしていますので、私たち一人一人は、「『など』とは何か」を考え続けなければなりません。
「言われたことだけやっていればいいや」ということでは、エホバのお気持ちを汲み取っているとは言えず、聖書から学んでいるとは言えません。

 これからも、新しいビジネス、新しい医療技術、新しい娯楽、新しいライフスタイルが次々と出てきます。
その都度私たちは、聖書の言葉に照らし合わせて、自らの頭で考えて、価値判断を行っていかなければなりません。
そのためには原則の適用という読み方は必須であり、その際に聖書から逸脱しないために、背景的な知識が必要になってくるのです。

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