エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

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 エホバの証人に関する話題を、一人の一般信者の素朴な視点から綴り、感想や観察を述べていきます。

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「疑問を抱くのは悪いこと」´元信者にありがちな心理状態、考え方、勘違い

 元エホバの証人の方々が書いていることで、とても気になる点があります。
何人もの方が、「疑問を抱くのは悪いことだと思い、自分を押し殺してきた」というのです。
私にはこの感覚がよく分かりませんし、これをお読みの現役信者の方々も、首をかしげることでしょう。
どうしてそんな風に考えてしまっていたのだろう、と不思議に思いますが、この点について、少し考えてみたいと思います。
(特定の方について批評するのがこのブログの目的ではないので、元信者の方のコメントの引用は控えます。)

 最近、元エホバの証人の方々が、いろいろなところで情報発信しています。
また、何年も前に書かれたものを見ても、元信者たちは大体似たようなことを言っています。

  • 「信者だったころは、疑問を抱かなかった。」
  • 「疑問を抱くこと自体が悪いことだと思っていた。」
  • 「例え、何かを疑問に感じることがあったとしても、そのような考えを持つことに怖さ(もしくは罪悪感)を抱き、そういうことは考えないようにしていた。」

 どういうわけか、元信者の方々からは、このような言葉が口々に聞かれるのです。
こういったものを読む度に、「どうしてそんな思考になったんだろう」、「親や司会者はどんな教え方をしていたのだろう」と、よく思います。

 まず、この点について、聖書の考え方を振り返っておきましょう。

 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。´ヘブル人への手紙 11:1、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 イエスは言われた、『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」』。´マタイによる福音書 22:37、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 思慮のない者はすべてのことを信じる、さとき者は自分の歩みを慎む。´箴言 14:15、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 いずれも、集会ではよく読まれる聖句です。
信仰を持つには、それが信頼に値するかどうか、証拠を確かめるという作業が不可欠です。
イエス・キリストが言われた『思いをつくして神に仕える』とは、よく考えて思考力を用いるということです。
聖書は、思考力を用いて真理を探求することを求めています。
思考力を使うことを放棄して、他人の言うことを何でも鵜呑みにするような人は浅はかであるとも言っています。

 また、現代のエホバの証人の歴史の初期を振り返ってみると、ラッセルたちの聖書研究グループは、コンコーダンス(聖書用語索引)を片手に聖書を調べながら、ああでもないこうでもないと議論して、聖書の言葉をほかの箇所の聖句と比較しながら研究し、結論をノートにまとめていくという方法を採りました。
疑問を持つのは良いことです。それを聖書から徹底的に調べることが奨励されているのです。

 そのようにして発見されてきた真理が、書籍や冊子になり、私たちはそれらの教材から聖書の真理を学びました。
しかし、私たちも同じように聖書を徹底的に調べて、ラッセルたちが辿ってきた聖書研究の歴史をなぞってみるのも良いことだと思います。
「ものみの塔協会の出版物に書かれているから正しい」と、結論だけを鵜呑みにするのではなく、聖書を開いて自分で裏付けを確かめることです。
もっとも、一般の聖書注釈書の中には、良いものもあればそうでないものもあり、同じ聖書時点の中にも矛盾があったり、玉石混交な様々な記述があります。
大切なポイントは、「聖書を神の言葉として受け止めること」、「聖句間の調和(聖書全体の整合性)を考えながら解釈すること」、また「祈りつつ研究すること」、「憶測や高等批評などの『世の知恵』を避けること」です。

 少なからぬ元信者が、このような考え方をせず、「親から教えられたから」とか「ものみの塔協会の教えは是が非でも正しいのだから」といった考え方をしてしまっていたというのは残念な話です。
こういった方々は、私たちと同じ聖書や雑誌を読み、私たちと一緒に集会に出席し、一緒に奉仕活動をしていながら、まるで、“別の宗教”を実践していたかのようです。
疑問を抱くこと自体に罪悪感を持ち、とにかく組織や長老が言っているから正しいんだという考え方をし、辛いことがあっても「喜ばなければならない」と考えて自分を責める。
こんな信仰生活、窮屈で辛かっただろうな、と思います。
「類型を整理: 『元エホバの証人』を名乗る人たちの様々なタイプ」という記事にも書きましたが、エホバの証人をカルトだと言っている元信者にとっては、エホバの証人はカルトだったんだろうな、と思ったりします。つまり、その人が信者だったころの信仰のあり方がカルト的だった(考え方や行動に極端なところがあった)という意味です。
こういった方々について、一つ同情するのは、親や研究司会者の教え方がどうだったか、という点です。もしかすると、疑問を持ってはいけないという風なことを言っていたのかもしれませんし、そういう態度を示していたのかもしれません。
「長老に教理上の質問をしただけで怒られた」という人もいますし、私もそういう経験が全くないわけではありません。元信者に限らず、現役信者の中にもそういう、思考力を十分には使わず、ただ単に宗派的信条としてものみの塔協会の教えを支持している、という人も何パーセントかはいるのかもしれません。しかし、そのような信仰は聖書に立脚しているとは言えませんから、とても危険です。不意の試練が訪れた時、その人は耐えうるでしょうか。

 なお、父親や長老など、責任を委ねられている立場の人にはこのような助言が与えられています。パリサイ派の人たちは、質問されることを嫌がり、反対意見を言う人を迫害したが、そのようになってはいけない、質問しやすく、近づきやすい人でありなさい、というものです。(「ものみの塔」2019年11月号、研究記事38「『私の所に来てください。そうすれば,爽やかにしてあげましょう』」という記事の11節をご覧ください。)
質問されることで腹を立ててしまうのは、権威主義的な考えを持っていたり、自分の立場を気にしているからかもしれません。これはエホバの見方ではありません。
私と親しいある長老は、「イエスはペテロから叱られるくらい近づきやすい人だった。長老も、反対意見や苦情をすぐに言いやすい人でないと半人前だ」とおっしゃっていました。

 「教理に疑問を抱くのは怪しからんことだ」などという考え方は聖書にはありません。
必要性を感じれば、支部や本部に手紙を送ることもできます。(「王国宣教」1992年12月号 2ページの「質問箱」参照。)
この点で、不適切な対応をしてしまったことでだれかを躓かせてしまっていたということがあるなら、私はそのことをとても残念に思います。
そして、躓いてしまった方々に対しても、もう一度、素直な心で聖書を調べてみることをお勧めいたします。

補足1: 「別の宗教」問題

 先ほど、疑問を持ってはいけないとか、宗派的信条だからエホバの証人の教えを受け入れる、という考え方について、「別の宗教のようだ」と書きましたが、似たような問題はほかにもあります。一緒に王国会館での集会に参加して、一緒に伝道活動をしていても、まるで別の宗教を実践している、ということはあり得るのです。

 これは元信者の話ではありませんが、30年ほど前に東北地方で聖書を学んでいたある男性信者は、当時すでに高齢だった司会者から、「祈る時にはエホバに失礼がないように星座をしなさい」と言われたそうです。しかし、聖書にそのような教えはありませんから、その司会者は聖書を踏み越えたことを教えていたということになります。
これは、「まあ、あの人も、生真面目な人だよね」と言えるようなほほえましいエピソードだとは思いません。むしろ、このような考え方は危険である、という認識が必要です。
聖書は、立ったり座ったりひざまずいたり、様々な姿勢で祈れることを示しています。(マルコ 11:25。歴代志上 17:16。ダニエル 6:10。)
祈りの姿勢に関して規則はなく、「敬意がこもっていればどんな姿勢でも祈れる」というのが聖書の考え方です。
もし、特定の姿勢に何かしらの意味を持たせてしまうとしたら、それは「別の宗教」になってしまうのです。

 では、集会の最初と最後に起立して祈るのはなぜなのでしょうか。
あれは基本的に、1. 歌うために立って、2. そのままの姿勢で祈る、というものです。
大会でのバプテスマの話の途中で捧げられる祈りの場合、浸礼希望者は、1. 立って信仰の表明をし、2. そのままの姿勢で祈りますし、聴衆は座ったまま祈りに参加します。
記念式の時にパンと葡萄酒を回す前の祈りでも、わざわざ立ったりはしません。

 もちろん、起立して頭を垂れるというのはエホバに敬意を表す良い方法の一つです。
しかし、それは方法の一つであって規則ではありません。
起立して祈りをささげるというのは、使徒教父も書いているクリスチャンの古くからの伝統ではありますが、聖書的な要求事項ではありません。

 自分がどんな姿勢で祈りに加わるかは自由です。
しかし、だれかに対して、それが聖書の教えであるかのように、「こういう姿勢で祈るべきだ」などと言ってはいけません。
こういったことが、単なる「生真面目さ」ではなく、「真の崇拝から逸脱する危険な考え方である」という認識を持つ必要があります。

 これは一例にすぎませんが、このように、同じ神を賛美し、共に活動していながら、「別の宗教」を実践しているというのは十分にあり得ることなのです。
自分の崇拝の方式に余計な不純物が混じっていないか、聖書の言葉と照らし合わせながらチェックするようにしていきたいものです。

補足2: その他、元信者によくある考え方や勘違い

 この記事では、「疑問を抱いてはいけない」という元信者にありがちな考え方について取り上げましたが、ほかにも元信者にありがちな考え方をいくつかみていきましょう。

「罪を意識すること」と「罪悪感」の違いを理解できていない

 聖書は人の罪を明らかにし、イエス・キリストが贖いによって罪から解放してくださったということを教えています。
聖書は、罪を自覚すること、罪を取り去ってくださった贖いの価値を認識してイエスの自己犠牲とエホバの愛に感謝することを勧めています。

 ところがです、この「罪を意識すること」がイコール「罪悪感を持つこと」だと思っている人というのがけっこういるようです。
よく、キリスト教やユダヤ教の背景のない人が原罪を認識するのは難しいと言われますが、原罪を認識するというのは罪悪感を持つというのとは違います。
例えば、生まれたばかりの赤ちゃんは純真無垢で悪いことなど何も考えていませんが、それでも聖書は人は生まれながらに罪があると教えます。
カルバンなどはかなり極端で、赤ん坊はけがれているから天罰を受けても当然だということを言っていますが、原罪とはそういうことではありません。
原罪とは遺伝病のようなもので、好むと好まざるとにかかわりなく、生まれながらに受け継いでいるエラーのことです。
これは、私たち一人一人にはどうすることもできない問題で、ただただ贖いに信仰をはたらかせるしかありません。
罪悪感を抱いたり良心の呵責を感じるようなことではありません。
(「ものみの塔」2010年6月号の「罪 ― 何が変わったのか」という記事を参照。)

 これに対して、性的不品行や窃盗のような、個々の人が意識的に犯す罪もあります。幼いころから聖書を学んでいた二世の場合、この種の悪行をしたことがないという方も多いでしょう。
それでも、人がエホバに献身するにあたっては、悔い改めが必要です。ここで言う悔い改めとは、必ずしも過去に意識的に犯した重大な悪行を後悔するということではありません。神から疎外されていた人類社会から離れ、エホバのものになることを誓うため、過去の些細な間違いも含め、全てを捨て去るために悔い改めるのです。

 エホバの証人は、体罰によって子供に罪悪感を植え付け、マインド・コントロールしようとしてきた、と言う方がいますが、罪悪感を与えることは、体罰の目的ではなかったと思います。(中にはそういう親もいたかもしれませんが。)

 原罪を認識する必要があると言っても、自分を犯罪者のように考える必要はありません。
良心で自分を責めたところで、どうにかなる問題でもありません。受け継いだ罪と個々の人が犯す罪は全くの別物です。

良心は敏感であればあるほど良い、という勘違い

 良心は敏感であればあるほど良いことだ、潔癖であればあるほど立派なクリスチャンだ、と思っていて、自分で自分にプレッシャーをかけすぎてつぶれてしまう人もいます。
しかし、そういう考え方は聖書的とは言えません。
この点について詳しくは、当ブログの「良心よりも大事なもの」という記事をご覧ください。

クリスチャンは立派な行いによって救われる、という勘違い

 これも、聖書の考え方ではありません。エホバの証人は、神への愛ゆえに信仰を行動で実証しようとしますが、その行動によって救われるとは考えていません。
この点について、jw.orgの「よくある質問」に面白い記事があります。「エホバの証人は,救いという報酬を得るために戸別伝道をしているのですか」という記事です。
この記事の中にこんな例えがあります。ある慈善家が、ある日時に特定の場所に来た人全員にプレゼントをすると言った場合、是非行きたいと思うだろうし、家族や友達にもそのことを伝えたいと思うだろう、しかし、例え指示に従って受け取りに行ったとしても、それはあくまで善意によるプレゼントであって報酬ではない、という例えです。
エホバの証人が伝道を行うのは、エホバからの素晴らしいプレゼントを、一人でも多くの方々と分かち合いたいと考えているからです。しかし、永遠の命というのはあくまで愛にあふれるエホバからの無償のプレゼントであって、指示に従って受け取ったからと言って、それは報酬ではありません。救いに見合うほどのことができる人間など一人もいないのです。(テトス 3:5)

 キリスト教の諸教派間では、よく、信仰義認か業による義認か、といったことが議論になります。
エホバの証人は、伝道活動や集会への参加や聖書研究などを熱心に行いますから、そういった行いによって救われると思っているのだろう、と勘違いされることがよくあります。
また、二世や聖書レッスンを始めて日が浅い研究生も、そういう勘違いをしていたりします。
しかし、エホバの証人もプロテスタントと同様、信仰義認を信じています。
ただし、ヤコブが手紙の中で書いているように、信仰があると言うのであれば、それを行動で実証すべきだと考えています。
それでも、その行いに対する褒美として救われるとは考えていません。

 業による救いなどあり得ない、ということは、2000年前に証明されていることなのですが、時々、そういう勘違いをしている人がいるのが、気になるところです。

『契約より人格』という見方

 エホバの証人の出版物ではよく、「良い振る舞いをしましょう」ということが言われます。しかし、これを強調しすぎてしまう人もいます。
100年ほど前のことですが、クリスチャンはとにかく上品であればよい、行儀よくし、親切を示し、ただ穏やかで、怒りをぶちまけたりせず、いつも微笑みながら静かに聖書を読んでいれば救われる、と考える人たちがいたようです。そこで、1926年に、「ものみの塔」誌の記事の中で、そういった考え方への警告が載せられました。
完ぺきな人格を目指しても落胆するだけになるか、いかにも善人ぶった人になって思いあがってしまうかになるだけだ、イエスの贖いに信仰を働かせ、一生懸命神の望まれることを行うことが大切だ、という点が強調されました。

 これは、米穀やヨーロッパで100年前にあったことですが、3,40年前の日本でも、そのような考え方に陥ってしまっていた人がいくらかいたかもしれません。良いマナーは大切ですが、お行儀よくすることよりも、贖いによる救いを信じ、神の主権を擁護し、忠誠を貫くことのほうがずっと大切です。
(「エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々」という本の172-173ページもご覧ください。)

「霊の実」ではなく「努力の実」を重視する傾向

 さらに、そのような「人格陶冶」を自分の力でやろうとしている人たちもいました。これも聖書的とは言えません。
聖書は、人が神に導かれ、神の助けを受け入れれば、立派な人格を身に着けられるということを教えていますが、これはエホバの聖なる力の導きがあってこそのものです。
私たちに求められているのは、けがれを避け、エホバの聖なる力が流れるために自分を整えることです。
そこまでの努力をすれば、あとはエホバが聖なる力で助けてくださいます。
決して、自分一人の力で立派な人間になろうなどと考えてはなりません。
聖書が、善良な人格を身に着けるようにと教えていたとしても、それは「自己啓発」によって達成できるものではなく、神の力があってはじめて到達できるものなのです。

 旧ソ連では、エホバの証人が多数収容されていた収容所では、刑務官や医療関係者などのスタッフに対して、礼儀正しい振る舞いをすることが求められていたそうです。
常に行儀良くし、かんしゃくを起こしたり悪態をついたりせず、気配りをするように言われており、そのような良い振る舞いに対して、最大で給料の30%のボーナスが支給されていたそうです。
そのように礼儀正しく接することで、エホバの証人だけが特別に礼儀正しいというわけではないことを他の収容者たちに示すためです。
しかし、このようにしてエホバの証人のように振舞うことはスタッフたちにとってかなり重荷だったようで、ストレスが貯まって耐えきれなくなり、うっぷん晴らしのために外に出て悪態をつきに行く人もいたそうです。
エホバの聖なる力の助けなしに、ただ感情を押さえつけて表面的に良い振る舞いをしようとしても、ストレスが貯まるばかりだということがよく分かります。
(「2008 エホバの証人の年鑑」、193-194ページをご覧ください。)

 これは私たち自身にもあてはまることです。
もし、エホバの聖なる力の助けを得ずに立派な人格を示そうとしても、精神的に消耗するだけでしょう。
元信者の中にはこのような、自分の力で立派な人間になろうとして消耗してしまった人が多いのです。
もし、私たちが自分の力で辛抱強さや自制を示しても、それはただ単にその人の「努力の実」であって、「神の霊の実」ではありません。
人間では実現不可能なことを成しえるのが聖なる力の働きです。聖なる力に頼りましょう。

立場を重視する考え方

 これもよくあります。
バプテスマを受けることや開拓奉仕をすること、援助奉仕者として仕えることや長老に任命されることを「出世」と考えるような、およそ聖書的とは言えない見方です。
自分が用いられていない、ということでひどく悩んでしまい、不公平感を感じ、エホバを捨てるまでになってしまったというのは残念なことです。
もっとも、エホバを捨てていない現役信者の中にも、そのような悩みを抱えている方はいらっしゃいます。
長老たちが若い人をきちんと訓練していない、という風に、長老の側にも問題があったというケースもあるでしょう。
しかし、例えそうであっても、エホバから離れないかエホバを捨ててしまうかは、当人が決めたことです。

 立場を重視する見方を持った人は、だれがどういう立場で奉仕しているかといったことをあれこれ気にします。エホバの証人よりも批判的な元信者のほうが、世界本部や支部事務所の人事情報に詳しかったりもします。
しかし、目立つ立場か目立たない立場か、組織内でどれほど用いられているか、といったことは、救いや神との関係という話とは無関係です。
エホバはその気になれば、キュロスであれ国連であれ、どんなものでも用います。イエスの弟子ではないカヤファに預言を語らせることさえありました。エホバから用いられていることと、エホバの是認を得ていることとは別です。大切なのは、エホバの友であること、日々エホバと共に歩み続けることです。
また、エホバからの割り当ては、基本的な権利ではなくプレゼントです。その点を忘れないようにしましょう。

 十分に用いられていないように思えても、「自分は認められていないのではないか」と気をもむ必要はありません。エホバは全てを見ていてくださいます。

 いくつか振り返ってきましたが、元信者の方々にありがちな思考法や勘違いのことを考えてみると、もしかすると、親や司会者や長老たちの教え方がちょっと厳しすぎたのかな、と思えてしまう面はあります。もっと、エホバの憐れみを強調する教え方ができていれば、とは思ってしまいます。
私たちは、自分の善行によって救われるのではなく神の憐れみによって救われること、贖いがどれほど素晴らしいものか、思考力を用いて真理を探究する取り組みを神は喜んでくださるということ、今の研究生たちには、こういったことを丁寧に伝えていきたいと思います。

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 もし、元信者の方がこの記事を読んでおられたら、エホバが今でもあなたを気にかけておられるということをお伝えしたいと思います。
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「エホバのもとに帰ってきてください」

 こちらの動画もご覧ください。
「JW Broadcasting 2015年11月」(20分07秒ごろから)

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