エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

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 エホバの証人に関する話題を、一人の一般信者の素朴な視点から綴り、感想や観察を述べていきます。

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体罰問題にどう決着をつけるか´過去の責任との向き合い方

 体罰問題で批判を受けているエホバの証人ですが、訴訟を起こすべきだとか、法人解散まで持っていくべきだという声もあります。しかし、それは難しいと思いますし、それを望んでいない被害者も多いと思います。重要なのは、法的措置より「感情の回復」に取り組むことです。以下ご説明します。
(体罰問題に関する筆者の考えについては、外部の方向けの記事として「長文: エホバの証人の体罰問題について」という記事を、また信者向けの記事として「エホバの証人の体罰問題´兄弟姉妹へのメッセージ」という記事を書きましたので、まずはそちらをご覧ください。)

訴訟での解決は難しい

 日本において、子供への度を越えた体罰が終息した時期は、地域や家庭によって異なりますが、1990年代後半から2000年ごろです。仮に、暴行罪(刑事)で責任追及しようとしても、時効は3年であり、とっくに過ぎています。心的外傷を負ったということで傷害罪で責任を問おうとしても、時効は10年です。民事の不法行為という事で責任を問おうとしても、時効は最大で20年です。改正前の民法が適用されますから、ケースにもよりますが、3年で時効、ということもあるでしょう。
法人解散まで持っていくべきだという声もありますが、国としても、時効が成立したことについて法的措置を取ることはできないでしょう。(この記事では、あくまで体罰の問題について書いています。「輸血の不選択は医療的ネグレクトに当たる」といった指摘もありますが、その点については論じていません。)

 また、体罰に関する教団組織の関与がどの程度だったか、という点について、熱心に証拠を集めている方もいらっしゃいますが、現役信者の感覚では、そのような証拠集めは必要ない、とも思います。というのも、会衆によっては長老が体罰の具体的な方法を指導していたというのは明白な事実であり、今あえて過去の集会での講話の録音などをさがす必要がないくらい、皆の知るところとなっているからです。事情をご存じない外部の方々は驚かれると思いますが、当時のエホバの証人社会では、体罰はそれほどまでに「普通のこと」だったのです。
それで、実態把握のための聞き取り調査などには意義があると思いますが、裁判のための証拠集めは必要ないと思っています。証明の必要がないくらい自明なことで、エホバの証人組織も、外形的な事実については争うつもりはないでしょう。

 日本支部も世界本部も、体罰があったこと自体は否定しないでしょうし、長老たちの中に誤った指導をしていた人がいたことも否定はしないでしょう。ただ、先日掲載した二つの記事、「日本のエホバの証人コミュニティで、体罰が常態化してしまった背景」および「エホバの証人が使う『組織』や『教師』にはいくつかの意味がある」にも書いたように、エホバの証人社会では責任の所在が不明瞭になりやすいところがあり、それが今、「組織ぐるみの関与を否定した」などとして批判を受けています。この点については、もう少し丁寧な説明が求められるかと思いますが、私としては、教団組織が意固地になって組織的な関与を否定し続けるようなことはないと思います。
「教団として虐待を奨励してはいないが、不適切な指導を是正するのに時間がかかり過ぎた不作為の責任は認める」というのが妥当な認識だと思いますし、私は広報担当者にそのように発言してほしいと思っています。

 それで、私としては、この問題は、話し合いで解決していくしかないように思います。
医療過誤が疑われるケースの場合、厳密な立証という事が難しいので、裁判ではない形(ADR(裁判外紛争解決手続))で決着をつけるという事がよくありますが、エホバの証人の体罰問題も、中立的な弁護士のチーム(被害者側の弁護士ではない)に仲介してもらって話し合いで解決していくというような方法がベターではないかと思います。それは、立証が難しいからではなく時効が過ぎているからです。
教団としても、「時効が過ぎていますから相手にしません」などというそっけない対応はできないでしょう。これは、法律がどうとかいう以前の、クリスチャンとしての愛の教えの実践が関係してきますから、被害者の声を無視することはできないはずです。

人権侵害があまりにも横行している社会では、個別の責任を問うのは難しい

 度を越えた不条理な体罰に耐えてきた方々は、親御さんに対して複雑な思いを抱えていたりするものです。
親を訴えたいという人もいれば、訴えたいわけではないが被害の深刻さを理解してほしいというお気持ちの方もいらっしゃるでしょう。大事なのは感情の回復だから、むしろ安易にお金で解決などしたくないという方もいらっしゃるでしょう。
確かに、体罰を与えた親の中には、自分がした過ちの大きさに気付いて病んでしまった人もいますが、失敗を自覚していないように思える人、被害の大きさがよく分かっていないような人もいます。後者の人たちに対しては私からも一言言っておきたいことがあり、「エホバの証人の体罰問題´兄弟姉妹へのメッセージ(その4)」という記事に「子供と向き合えていない親たちへ」として、いろいろと書かせていただきました。

 日本のエホバの証人社会でかつて行われていた体罰は、家庭によってはかなり凄まじいものでしたので、詳しい事情を知らない第三者からすると、訴えるべきだ、処罰されて当然だ、という意見が出てくることも理解できます。しかし、現在、エホバの証人社会内に、子供が親に対して、あるいは一般信者が教団組織に対して、法的責任を問おうという大きな動きはありません。
この点について、「多くの現役信者はマインド・コントロールされた状態にあり、自分の頭で考えることができないのだ」と言う人もいるでしょう。しかし、私はそうは思いません。「問題が大きすぎて訴える気になれない」というのが実情ではないかと思われます。

 あるコミュニティにおいて、『善意の人権侵害』があまりにも一般化していると、個別の事件の責任を追及するというのはかえって難しかったりもします。
例えば、セクシャル・ハラスメントが当たり前すぎた時代は、世の中に「セクハラ」という言葉もありませんでした。やがて、「これは問題だ」と考える人が出てきて、セクハラという言葉を作って発信し、それが世の中に認識され始めた段階で、やっと「社会問題」として認知されるのです。別の言い方をすると、今、社会問題として認識すらされていないことが、最も大きな社会問題である、ということです。だれからも問題視すらされていない差別や偏見やハラスメントというのは、全ての人が加害者になり得るからです。
かつて、エホバの証人社会において、度を越えた体罰というのはあまりにも普通のことでしたので、「加害者がそこら中にいる常態」でした。しかも、親たちは悪意があって子供を傷つけたかったわけではなく、それが良い子育てだと思って一生懸命にやっていました。今、壮年・中年となった二世も、親に悪意があったわけではないという事は分かっていますから、親を責める気にもなれない、ということです。

 かつて日本では、末期的な病気の患者に病名を告知しないという事が普通に行われていました。治療の方針など、何から何まで本人不在のところで決めて、説明もせずに薬を飲ませたりしていました。私としては、これを、とんでもない人権侵害だと思うのですが、当時は医師も家族も社会全体も、それがいいことだと思って是認もしくは容認していました。そのような、「善意の加害者」がそこら中にいる常態では、あの人が悪いとかこの人が悪いとか、特定の個人の責任を問うというのは難しいでしょう。
40年ほど前に亡くなった祖父(エホバの証人ではない)は、最後までがんを告知されず、よく分からない手術を受けさせられたうえ、「手術は成功したよ」と本人には告げられましたが、実際には、お腹を開いてみたらがんがあちこちに転移していて何もできずに手術を終らせたというのが本当のところです。先ほど私は、病名を本人に告げずに自己決定権を本人からはく奪することを「とんでもない人権侵害」と書きましたが、そうは言っても、祖母や親族のことを悪く言ったり、法的責任を追及しようという気にはなりません。当時はそれがあまりにも当たり前で、善意からやっていたことだからです。

 本当の病名を本人には告げないという運用は今でもなくなってはいません。私も、つい数年前のことですが、仕事で、がんを告知されていない患者さんと接することがありました。本人に告げずに周りで勝手にあれこれ決めてしまうなんてよくないことだな、という考えは私にはありますが、だからと言って主治医やご家族の意向を無視して、私の独断で「あなた本当はがんなんですよ」などと言うわけにもいきません。

 また、社会学者の宮台真司さんはこんな例も紹介しています。
ある、保健の先生から相談を受けたそうです。夏休みの後に男の子たちが凶暴になるという事があり、理由を調べてみたら、夏祭りの時に集団強姦を行うことが風習になっていたというのです。それを問題に感じて、被害に遭った女の子たちとその親に、警察に届けることを勧めたようですが、親達から、あまり大ごとにしないでほしいと言われたそうです。というのも、親たちもその“通過儀礼”を経験しており、強姦被害に遭った女の子たちが引っ越すという事もなく、その後もその地域コミュニティの中で普通に生活しているからです。そういう状況を目の当たりにして、その保健の先生は、女の子たちに向かって、「あなたたちはとんでもない人権侵害の被害者なんだよ」と言っていいものか、自信がなくなってしまったというのです。(ビデオニュース・ドットコム マル激トーク・オン・ディマンド 第876回 「性暴力被害者に寄り添う社会を作るために」)
エホバの証人社会における体罰とは質的に異なる問題ではありますが、「人権侵害があまりにも横行していると、個人の責任を問うのは難しい」ということが言えると思います。

 こういったことを考える時、特定の人の責任を追及する事よりも、「文化を変えること」のほうが重要であると言えると思います。そして、少し対応が遅かったとは思いますが、エホバの証人はその「文化を変える」という課題に挑み、体罰問題を克服してきたのです。
これには、「戒律主義者のようになるのではなく聖書の原則に基づいて自律的に判断できるようにする」という発想の大転換が伴いました。それを見事やってのけたのはすごいと思います。なぜなら、「お尻を叩くべきだ」と考えている戒律主義者に向かって「お尻を叩くべきではない」という『新しい規則』を提示しても、戒律主義的発想自体は変わらないからです。そうではなく、思考パターン自体を変える必要があり、その途方もない課題に取り組んできたのです。(参考リンクから資料をご参照ください。)

 私は、「長文: エホバの証人の体罰問題について(その1)」という記事の中で、このように書きました。
今、報道では、二世の子供は被害者、親は加害者、というトーンで語られることが大飯のですが、親たちも傷ついていたのです。
これについて、「現役信者は、親達をかばって隠ぺいに加担している」と言う人もいるのですが、これはそういう問題ではありません。
それは、「良かれと思って一生懸命だった親を責められない」という人情の問題と、「本当につらかったけどイエスの贖いの犠牲に基づいて親を許してあげたから蒸し返したくない」というクリスチャン愛の実践という面と、問題の規模があまりに大きすぎて特定の個人の責任は問いにくいという面とがあります。

 現役信者も、自分たちの組織にいろいろと問題があったことは認識しているのですが、上のような理由から、親の法的責任を問おうという大きな動きはありません。
ただ、私の友人は、何年も前のことですが、むちのことで親に謝罪を要求し、そこで謝罪の言葉をもらって満足したようです。感情の回復という面で、こういったことは手続き的に必要であると思います。ただ、そのようにしてきちんと向き合って過去の問題を克服できている親子はそれほど多くはないようです。

 エホバの証人は、統治体や支部からの指示には従順に応じます。ですから、組織がこの問題を解決するためのきっかけを作ってあげてもいいと思います。
「過去の激しい体罰で深く傷ついているお子さんと向き合って、きちんと話し合って、必要なら謝罪を伝えるように」という呼びかけをして、各家庭に感情の回復のためのプロセスを踏むよう促すのは一つの方法です。
また、長老や過去に長老だった人に対して、「体罰の具体的な方法を指導するといった不適切な指導をしたなら、関係者に謝罪するように」と呼びかけても良いと思います。
凄まじい体罰という一つの「悪しき文化」を変えてみせたエホバの証人組織の努力は素晴らしいと思いますが、過去の話があやふやになっているようなところはありますので、そういった点は、これを機会にきちんと向き合って清算するのが良いと思います。

 私は、今エホバの証人社会が過去の体罰の件で世間から叩かれていることについて、「サタンからの攻撃」ではなく、「エホバからの懲らしめ」だと思っています。過去と向き合うとても良い機会をいただいたと思っていますので、この機会を活かすのが良いと思います。
教団組織には、「どういうメディア対応をするか」といったことだけでなく、自分たちの中でこの問題とどう向き合い、どう乗り越えていくかという事を考えていただきたいと思いますし、既にそのような検討はなされているものと思います。

沈黙を保っている現役信者たちは何を考えているのか

 エホバの証人が日本に21万人以上いることからすると、ネット上で発信を行っている現役信者はほとんどいないと言っていいくらいの比率です。過激なことを言っている人が目立つように見えますが、何も発信しない大多数の普通の信者たちは何を考えているのでしょうか。

 私のように、過去の度を越えた体罰は問題であり、本当に反省すべきことだと考えている人は相当数います。メディアで体罰被害を訴えている元信者に対する同情的な声も多いです。「大変だったんだろうな。あの人も救われてほしいな」と言っている男性信者もいました。

 また、長年の経験を持つある長老は、「むちは本当に嫌だった。自分はむちには反対だったので、子供には絶対にむちはしなかった。長老たちにむち棒を作ってくださいと頼んでくる姉妹もいて困った」などと語っておられました。

 さらに、むちを受けていたある男性信者は、「子供の頃はむちが本当に嫌で、奉仕に出かけた時には、家に帰ったらどうやってむちをされないようにしたらいいかばかりを考えていた」とも語っていたそうです。

 ある高齢の女性信者は、娘さんに与えた体罰のことで苦しんでおられました。今40台になる娘さんは、体罰によって受けた心の傷で病んでしまい、仕事もできず、外出も難しいくらいの常態がずっと続いています。しかし、信仰は捨てていませんし、母親に悪意があったわけではないということも知っているので、お母さんを責める気持ちにもなれません。母親は、自らが高齢であるにもかかわらず、懸命に娘さんの世話をして、この親子は支え合っています。

 ある家庭では、何年も前に家族の崇拝(家族で行う聖書研究)の時に、体罰に関する過去の記事を徹底的に調査したそうですが、資料を読んでいたら母親(2023年現在およそ70歳)が泣き出してしまい、過去の体罰についてじっくり話し合うことはできなかったとのことです。

 他方、最近の報道について、「サタンからの攻撃だ」、「背教者の言っていることに一切耳を貸すべきではない」という考えの人たちも一方で存在します。
また、体罰について、「自分も経験したが、心の傷にはなっていないし、親には感謝している」と言っている人もいます。この言葉が本心から出たものなのか、つらい過去の記憶を上書きしようとする過剰適応から出た言葉なのかは分かりません。

 とはいえ、少なくとも私の周辺では、概ね同情的な意見を持つ人のほうが多いように思います。

聖書中の例: 神の民の中に見られる不祥事

 こういった、エホバの証人社会内のトラブルの話を聞いて、「これが真の宗教であり得るだろうか」と思う人もいるでしょう。しかし、私たち現役信者は、聖書中の証拠と照らし合わせて、エホバの証人社会にいろいろと問題があるとしても、エホバの証人はエホバが用いている唯一の宗教組織であり、真の宗教であるという考えを変えません。
どんな証拠があるかというと、例えばミカ 4:5が挙げられます。

 すべての民はおのおのその神の名によって歩む。しかしわれわれはわれわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。´ミカ書 4:5、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 聖書によると、終わりの時代に、「エホバを崇拝することで知られる宗教グループ」が登場することになっています。その宗教グループには、あらゆる国民、部族、国語、民族の人たちが加わります。(黙示録 14:6)エホバという神の名を使っている宗教はいくつかあるにしても、国際的に活動している知名度のある宗教グループは、実質的にエホバの証人しかいません。
エホバの証人の公式ウェブサイト jw.orgは、提供言語数が最も多い多言語サイトであり、アクセス数は宗教カテゴリーで1位です。(シミラーウェブ)もし、真の神が人類を救おうとするなら、できるだけ多くの人に、救いのメッセージを伝えようとすることでしょう。どこかの未開の山奥でひっそり信仰されている宗教が、全人類を救う宗教であるということは考えにくいでしょう。今、エホバの証人は世界中で活動し、聖書に基づく救いのメッセージを届けているのです。

 ミカ 4:5はとても奇妙な預言です。というのも、エホバは聖書の神で、その聖書は世界中の人に読まれています。今、世界には、「聖書を聖典とする宗教」の信者が40億人おり、キリスト教のほかに、イスラム教やユダヤ教、また一部の新宗教も、聖書を聖典としているのですが、エホバを無視し続けています。聖書は3000以上の言語に翻訳され、世界中で読まれているのに、聖書の読者の大半から、聖書の神エホバは無視されています。
エホバは、世界で最も多くの言語に翻訳され、何十億冊も配布されている聖書に出てくる唯一神なのに、「エホバを崇拝することで知られる宗教」が事実上一つしか存在しないなど、およそ実現しそうにない預言にも思えます。本来、世界中の様々な宗教で、エホバの名が唱えられていてもおかしくないはずです。

 また、カトリック教会は2008年以降、神の名の排除を徹底するようになっています。2008年6月29日、バチカンの典礼秘跡省は世界中のカトリック司教協議会に通知を送り、祈りや聖書や聖歌の歌詞など、礼拝のありとあらゆる場面から神の名の排除を徹底するように指示しました。(「教皇庁典礼秘跡省 司教協議会への手紙―『神の名』について カトリック中央協議会)
これを受けて、日本カトリック司教協議会は、祈りや聖歌から神の名を削除する対応を行いました。新共同訳聖書の創世記22章14節には、「ヤーウェ・イルエ」と地名の中に神の名が出てきますが、この箇所も、朗読の際には「主」を意味する表現に置き換えられるようになりました。(「典礼における『神の名』に関する典礼秘跡省からの『指針』への対応)
カトリック教会はその根拠として、「長年の伝統」や「神の名に対する敬意」と言いますが、エホバの証人はこれを、神に対する不敬であり、信者たちを真の神エホバから遠ざける行為だと考えています。(「ものみの塔」2009年4月1日号 「神の名の排除を目指すバチカンの動き」)
(終わりの時代におけるエホバ崇拝の復興について、詳しくは、宮原崇さんのサイトにある「“エホバの証人”とは」という資料をご覧ください。)

 また、私がエホバの証人は真の宗教だと思う二つ目の理由は、「大群衆」の実態を理解しているという事です。
1935年にエホバの証人は、黙示録の中に出てくる「大群衆」の意味を理解できるようになりましたが、この理解は、天に復活させられた二十四人の長老の一人によって授けられることになっていました。(黙示録 4:4; 7:13-14)「大群衆」の理解は、2000年弱秘められてきたキリスト教における救いの再発見とも呼べる劇的な出来事でしたが、これは、エホバが、エホバの証人という教派を是認し、真理を啓示する経路として用いておられる証拠です。(宮原崇さんのサイトの「マタイ 24:3」の項もご覧ください。)

 このような証拠があるので、多くのエホバの証人は、エホバの証人社会内にいろいろと問題があることを知りつつも、エホバの証人が神によって用いられている真の宗教であるという考えを変えません。

 聖書中の例に注目してみると、エホバの民の間にも様々な問題があったということが分かります。
アカンによる窃盗(ヨシュア 7章)、ベニヤミン族による集団的性犯罪とそれに伴う内戦(士師記 19-21章)、異文化のクリスチャンに対する差別(使徒 6:1)、僧職売買(使徒 8:9-24)、クリスチャン婦人同氏のいさかい(ピリピ 4:2-3)や長老たちが喧嘩した例(使徒 15:36-41)など、聖書には神の民の様々なトラブルについて書かれています。特に、民数記や列王記など、古代イスラエル人の歴史を扱った書を読んでみると、これでもかというくらいくどく、イスラエル人がエホバの辛抱を試した歴史が書かれています。これらは全て、私たちに対する教訓として書かれています。(ローマ 15:4)
こういった記述を読むと、エホバが私たちのことを考えて、会衆内に深刻な問題があったとしてもクリスチャンとしての立派な歩みを続け、神を捨てないように、道を踏み外さないようにと励ましてくださっていることがよく感じ取れます。

真のクリスチャンは愛によって見分けられる

 イエス・キリストの言葉によると、真のクリスチャンは愛によって見分けられます。(ヨハネ 13:34-35)完璧さによって見分けられるのではありません。
体罰に苦しんできた多くの二世信者たちが、この愛を実践してきました。親を心から許し、蒸し返さないことにしたのです。その愛があまりにも大きいので、外から見ると「二世信者たちは親をかばって隠ぺいに加担している」などと言われてしまうのかもしれませんが、そういうことではありません。想像を絶する痛みを、並外れた愛で乗り越えてきた人たちも多いのです。これはもう、その人たちにしか分からない境地というものがあるのだろうと思います。

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長老たちに対するエホバの裁き

 エホバは暴力や虐げを憎まれる愛の神です。(詩篇 11:5)
体罰を与えてしまったことで後悔している親がいるなら、エホバはイエス・キリストの贖いによってその人を許し、過度の悲しみに飲み込まれてしまわないように、大きな愛で助けてくださることでしょう。(ヨハネ第一 3:19-20)
しかし、自分がしたことの重大な結果をいまだに認識しておらず、愛にあふれる子供から許してもらっていることを当然のことのように考えている親がいるとしたら、いずれエホバはその人の責任を問われることでしょう。今がその時なのかもしれません。

 また、聖書は長老たちに対して、特別な権限を与えると同時に、より重い裁きを下すと言っています。例えばこんな言葉があります。

 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。´ヤコブの手紙 3:1、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。´ルカによる福音書 12:48後半、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 13 主は言い争うために立ちあがり、その民をさばくために立たれる。
14 主はその民の長老と君たちとをさばいて、『あなたがたは、ぶどう畑を食い荒した。貧しい者からかすめとった物は、あなたがたの家にある。
15 なぜ、あなたがたはわが民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか』と万軍の神、主は言われる。
´イザヤ書 3:13-15、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 ルカとヤコブの聖句は、多くの権限が与えられている人はより重く裁かれるという事を言っています。イザヤの聖句は、長老たちは民を裁くが、長老を裁くのはエホバご自身であるということを言っています。(細かい説明は省きます。)
もし、エホバの群れの羊たちを乱暴に扱ったり、ひそかに悪事を行っているような長老がいるのであれば、エホバはいずれその人の悪を暴き、責任を問われるはずです。エホバを欺くことなど、だれもできないのです。
長老たちからひどい目に遭わされてきた現役信者たちは、この言葉に信仰をおいています。公正を愛するエホバは、虐げられてきた弱者のために必ず行動を起こされるのです。

 悪事には様々なものがありますが、児童虐待というのは、問題の性質上、エホバが特に憎まれるものです。愛と憐れみの神エホバは、弱いものいじめを見ていられないのです。

 17 あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、
18 みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。
´申命記 10:17-18、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 22 あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。
23 もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。
24 そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。
´出エジプト記 22:22-24、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 これらの聖句から、エホバが弱者を虐げることを憎まれるという事がよく分かります。
さらに、ご自分の言葉である聖書を誤用して虐げが肯定されていたのであれば、なおのことお怒りになるはずです。

 出エジプト記の聖句について注目したいのは、エホバはこの点で、裁きの執行を人間の裁判官には委ねておられないという点です。児童虐待をする人がいるなら、エホバご自身が行動され、燃えるような怒りをもって裁きを下されるのです。これがエホバの見方です。(「ものみの塔」2009年4月1日号の「神に近づく 父なし子の父」という記事をご覧ください。)

 イエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせて互いを許しあうことと、話をうやむやにすることとは違います。加害行為を煽ったような長老は、今すぐ関係者に謝罪すべきですし、そうしないのであればエホバから責任を問われることになるでしょう。
また、日本支部や世界本部のスタッフも、不適切な言い逃れをするなどすれば、世間から叩かれるだけでなく、信者たちからの信頼を失い、エホバから責任を問われることになるでしょう。そうはならないことを信頼しています。



黙ってエホバの救いを待つ

 体罰を受けてきた多くの現役二世信者たちが沈黙を保っているのは、エホバの救いを信じ、エホバからの慰めを得ているからです。
これが、悪意を持った一人の人間による非行なのであれば、裁判に訴えることもあったでしょう。しかし、善意から、あたかもそれがエホバの教えの一部であるかのような風潮の中で親がしたことについて、人情の面からも、クリスチャン愛という観点からも、責任は問いにくいですし、個別の事件の責任を追及することによってかえって重要な論点が矮小化してしまうようにも思えます。
この件に関しては、日本支部の適切な対応を願いたいところですし、もし日本支部にそれができないなら、「統治体に怒られてもいいだろう」と思いますし、世界本部まで適切な対応ができないなら、「エホバのみ手に委ねるしかない」というのが信者たちの総意ではないかと思います。
私としても、先の記事で言いたいことは全て言わせていただきましたので、エホバに全てを委ね、哀歌 3:26にあるように、エホバが行動される時を黙って待ちたいと思います。*1



参考リンク

 この記事では厳しい指摘もしていますが、エホバの証人組織が凄まじい体罰という『悪しき文化』を変えるために払った努力は並大抵のものではなく、聖書の知恵に基づいた、大変素晴らしいものだったと思います。
以下のページもご覧ください。

当ブログの記事

「長文: エホバの証人の体罰問題について(その3)」 「エホバの証人が行った改革について」  度を越えた体罰という問題を終息させるために、教団組織がどのような取り組みをしたかについて書いています。

「あれから29年´ホテルニュージャパン火災の最高裁判決は日本社会をどう変えたか」  上野記事の補足記事です。

外部リンク

「ヨハネ 14:9」  宮原崇さんのページ。日本にかつて存在した、「熱狂的カルト会衆」の問題についての言及があります。

「キリスト教と戒律主義」  宮原崇さんのページ。エホバの証人に特徴的な「原則の適用」という考え方について詳しく説明されています。

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*1:この記事は、一人の一般信者の視点から書いています。仮に、もし私が教団幹部だったら、また別のことを考える必要があるだろうと思います。