エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

不定期更新です。長文多めです。貴重なお時間を割いて読んでくださり、ありがとうございます。


 ご訪問ありがとうございます。
 エホバの証人に関する話題を、一人の一般信者の素朴な視点から綴り、感想や観察を述べていきます。

現在、一部の記事を限定ブログまたはアーカイブページに移転するメンテナンス作業を行っています。削除された記事については、限定ブログまたはアーカイブページからご覧いただけます。

ものみの塔オンラインライブラリーの仕様変更により、ページ内の特定の段落にジャンプすることができなくなりました。今後、過去記事のリンクの修正作業を順次進めていく予定です。

メニューを折りたたむ

エホバの証人に批判的なコメントを見たときに考えるべきこと(当ブログの背教文書に対する見解も)

 ネットを調べていると、エホバの証人に関する様々なコメントを目にします。
過去に行われていた体罰はひどいものではないか、といった「もっともな指摘」もあれば、偏見や言いがかりのようなものもあります。
どうすれば、それらを見極められるでしょうか。
背教者が書いたものを読み漁ったりはしないとしても、偶然目に触れてしまうことはあり、そんなときにどのように考えればよいでしょうか。

背教者・元信者・識者・信者の家族など、エホバの証人に批判的なコメントをする様々な人たち

 エホバの証人に批判的な発言をするいろいろな人がいます。
立場は様々で、背教者・元信者・識者・信者の家族などいろいろいます。
立場だけでなく、考えや経緯、スタンスも様々で、それぞれの人が各々の考えに基づいて、エホバの証人を批判しています。
以下に代表的な例を挙げます。

「悪辣な背教者」はいたとしても比較的少数

 エホバの証人組織を執拗に攻撃し、悪意を持って嘘をつき、活動を妨害しようとするような、卑劣な背教者というのは、いたとしても比較的少数です。
そういう人たちが本を書いたり積極的に情報発信したりしているので目立ちますが、人数としてはそこまで多くはありません。
こういった人たちは、作り話をしてエホバの証人の評判をむやみに落そうとしたりします。※
新聞記者などは、そういった嘘を見抜けないこともあり、これらの背教者の作り話が新聞記事になって配信されるようなこともありましたが、最近はそういうことは減っているようにも思います。
少なくとも、体罰問題に関する報道を見ている限りは、記者の方々は比較的慎重に書いておられると思います。

(※ 背教者などが流している作り話に対する注意喚起として、「『真っ赤な嘘』にご注意ください」という記事を書いていますので、ご確認ください。)

「悪辣な背教者」の犠牲になってしまった背教者が多い

 次のグループは、その「悪辣で扇動的な背教者」の犠牲になってしまった背教者です。
こういった人たちは、信仰の根が浅く、卑劣な背教者たちに疑念の種を蒔かれて、疑心暗鬼になり、聖書の言葉の裏付けを十分に確かめることなく流されるままになってしまいました。
自分の信仰を守る責任はその人自身にありますから、自業自得という側面はありますが、いくらか同情を覚えます。
もし、純粋な心がまだ残っているなら、エホバはいつかご自分のもとに戻って来れるように助けを与えてくださることでしょう。
古代イスラエル国民の間でも、悔い改めて神の道に立ち返った背教者はいたのですから。

それら背教者の情報を鵜呑みにしてしまった「悪意のない反対者」たち

 次のグループは、扇動的な背教者やその追随者である背教者などが発信している間違った情報を信じ込まされてしまった、悪意のない反対者たちです。
これらの人たちが私たちに反対するのは、私たちのことを気にかけてくださっているからです。
怪しい宗教に騙されてしまっているのではないか、人生の選択を間違えてしまったのではないか、家庭が崩壊してしまうのではないか※、今すぐ助け出さなければならないのではないか、と思ってくれている優しい人たちです。
ご家族がそのような動機から反対することもあるでしょう。
そのような場合は、私たちは日々の信仰の実践を通して、エホバの証人の本当の姿を知っていただき、自分たちが狂信者でも反社会的活動をしているわけでもないことを、言行両面で示し続けていくしかないでしょう。
そのようにして、態度を和らげてくれたり、むしろ協力的になってくれた人は大勢います。

(※ エホバの証人は家庭を崩壊させる宗教だ、という指摘に対する聖書からの解説として、「エホバの証人は家庭崩壊をもたらすカルト宗教、と言われたら」という記事を書いていますので、よろしければご覧ください。アーカイブページからご覧いただけます。)

そもそも「反宗教」の人

 個別の教派に対する評価ということではなく、宗教全般に攻撃的であったり嘲笑的であったりする人です。
無神論者もいますが、無神論者ではないが組織宗教は嫌いだという人もいます。
伝統的宗教は無害だが新しい宗教は有害だという考えの人もいます※。
とにかく、宗教に対する強い不信感を持っている人が多いというのが特徴です。

(※ 「伝統的宗教は無害だが新しい宗教は有害だ」という考え方については、「新宗教への風当り´新しい宗教は危険な宗教になり易いのか?」という記事で取り上げていますので、ご確認ください。)

エホバの証人を妬ましく思っている他教派の人

 これは実際にあった話ですが、カトリックの一般信者の女性がエホバの証人を中傷する書き込みを多数行っていたり、プロテスタントの牧師が作り話をあちこちに書き込んでいたりという事がありました。
そのような作り話を信じ込んでしまった報道関係者もいます。
報道関係者の中には、各教派間の事情をよく知らない人がいたりしますので、妬みに駆られた牧師の言葉を、中立的な立場の人のコメントとして取り上げてしまうという事もありました。

 「盗聴器を発見します!」と謳っている業者が盗聴器を仕掛けることがあるそうです。
後になって見つかった時には、「見落としていました」と言い逃れをするそうです。
同じように、自分たちがカルトと疑われないため、自分たちがカルトであることを隠すために、「カルト対策」や「救出活動」を謳っているような宗教家もいたりしますので、新聞記者の方々には、「カルト対策の専門家」を名乗る人が本当の専門家なのか、特定の教派の利益のために行動している人ではないのかを、よく確かめていただきたいものです。
このように、メディアで中立的な立場の人としてコメントしている人が、本当は中立的ではなく、隠された動機を持っているということもあります。

エホバに反抗的で、エホバの証人に嘲笑的な元信者たち

 ツイッターなどでよく見かけるのはこのタイプの人たちです。
エホバの証人の行動や信条が世間一般のものと異なる部分を挙げて、「変だ」と言っている人たちです。
「世の中の感覚と変わっていること自体がだめだ」と言っているもので、自由を訴えているように見えて、実質は全体主義者です。
部分社会の個性を認めず、全ての部分社会に、全体社会と同質になれと主張しているようなものだからです。
(全体社会と部分社会については、説明する記事を後日掲載いたします。宮原崇さんのコラム、「宗教における自由の二面性」もご覧ください。)

 主張している内容は、例えば「子供の頃、誕生日パーティーがしたかった」というようなもので、私からすると稚拙な論議のように思えてしまうのですが、感情面でいろいろと苦労したことは確かなようです。
なかには、排斥や断絶をしたわけではなく「自主的・計画的な自然消滅」をしていった人たちもおり、一応まだエホバの証人の会衆に籍はありますから「現役信者」を名乗っていたりしますが、実質的には背教者と言って良いでしょう。
私たちには人の心は読めませんから、不活発な人のうち「憐れみをかけるべき元気をなくしてしまった愛する仲間」と「実質的な背教者」を見極めることは困難です。
ただ、不活発になっている人の中に、実質的な背教者が一定数いるということは留意しておく必要があるでしょう。

 こういう人たちに共通しているのが、「そもそも聖典主義の発想がない」という点です。(聖典主義については「参考資料2」をご覧ください。)
仮に、私たちが、「聖書にはこう書かれていて」などと説明しても、そもそも聖書に従って生きるという発想がなかったり、聖書を権威として認めていなかったりするので、話がかみ合わないことでしょう。
「神権政治」や「神の主権」もよく分かっていなかったりするので、聖書の道徳基準を否認する人も多いです。

 バプテスマを受ける前に集会に行かなくなった人についてはそれでかまわないのですが、バプテスマを受けていたとか、何年も開拓奉仕をやっていたという人もおり、いったいどういう気持ちでエホバの証人をやっていたのだろうかと思えてしまいます。
その気もないのに、エホバと周囲の人たちを騙して、自分に嘘をついてバプテスマを受けたのでしょうか。
そんな、自分に嘘をつく生き方は、さぞかし苦痛だっただろうと思います。

 この点で、もし親が、聖書的な考え方を教え込むのではなく、単に、あれがだめだとか、こうすべきだとかいうような教え方をしており、当人の自由意志を尊重することもせず無理強いしていたのであれば、そういう教え方はよくなかっただろうと思います。
教理がどうという以前に、「感情的な反発から反感を持つようになってしまった元二世」が多いのです。

 ちなみに私の場合、小学生になる前に親がバプテスマを受けていましたが、「べつに私献身していませんから」という感じで、小学校4年生くらいまでは学校でのクリスマスや誕生日のお祝いもしていましたし、そのことについて親からとやかく言われたことはありませんでした。
自分がエホバに仕えたいと思ったタイミングで自分から行動を起こすことができました。
ただ、私の親はちょっと変わったところがあるので、私のような人は少ないだろうとは思います。

この中見出しの参考資料

 全体社会と部分社会の違いについては、宮原崇兄弟の「宗教における自由の二面性」というコラムで説明されています。
(コラムの中では「親社会」と「子社会」という表現が使われています。
以下の「参考資料1」を展開すると、抜粋をお読みいただけます。全文はこちらからお読みいただけます


参考資料1: 「全体社会と部分社会」(クリック(タップ)で展開されます)

さてここで、このコラムのテーマになっている「宗教における自由の二面性」について触れたいと思います。

 私たちのこの社会は、それ自体が親子に例えられる構造を持っています。いろいろな宗教はその子供たちということになります。親は、たくさんある子供たちの世話をし、子供たちをみな対等に扱わなければなりません。つまり、つまはじきにされる子社会があってはならないため、親社会は完全に自由でなければなりません。こうして、親社会においては自由こそが至高のものとされます。

 一方、子社会は個性を持つことができます。つまり、自由を制限できます。子社会には宗教でないものもあります。たとえば、ある野球チームのファンクラブは対立するチームのファンを受け入れませんし、インターネットの会員制アダルトサイトはそのコンテンツを望む人だけを受け入れます。

 子社会が個性を持つことができるのは、ひとえに親社会の完全な自由性のゆえです。親社会があらゆる種類の子社会を受け入れることができるからこそ、特定の子社会が存在し得ます。さらに、親社会の傘のもとにあるからこそ、子社会同士は共存共栄の道を歩むことができます。またさらに、親社会の存在ゆえに、子社会は人権侵害の過ちを避けることができます。つまり、子社会においては自由が制限されているため、そこでは生きていけないという人が必ず現れますが、その人は子社会から親社会に脱出するか、別の子社会に移動することによって自分の権利を保つことができます。子社会が存在することは、特定の生き方を志す人にとって福祉となります。つまり、その人は、自分の思想と合った子社会に属することによってさまざまな支援を受け、自分の望む生き方を達成していくことができます。これらすべてを保証することにより、親社会は見返りとして多様な価値観の共存する理想状態を達成することができます。

 このことをきちんとわきまえた宗教団体は、それに応じたふさわしい態度を取りますが、そうでない宗教団体も多々あるといいます。彼らは、自分たちの信じる正義をちまたに広めて親社会と対等になるか、親社会そのものになることを夢見たりすると言われています。かつてのキリスト教世界や、近代の宗教国家にその事例を見ることができます。小さな宗教でも、カルト化すると、そのような振る舞いを見せることがあります。一方、わきまえのある宗教団体は、自分の宗教の内側に対しては自由を制限することを求めつつも、その外側には制限なき自由があるべきことを強く主張します。その宗教にとって認められない自由についても、それがあるべきことを認めます。こうして、成熟した宗教にははっきりとした自由の二面性が見られるようになります。
 エホバの証人はこの点でかなり目立つ存在です。たとえば、エホバの証人は輸血を否定しますが、街角で輸血に反対するデモ行進などを行ったりはせず、むしろ社会に対しては、輸血したい人が輸血し、輸血したくない人が輸血を辞退する自由を求めます。彼らにはさまざまな非主流の信条がありますが、そのどれについてもそのような態度をとっています。

 すでに書いたように、自由ということに対するエホバの証人の考え方が問題だと考えられた時期がありました。この時期には、宗教の専門家の中にも、自由の二面性ということをわきまえていない方がいることが露見したと思います。特に『宗教問題の専門家』たちにそれが見られました。
 宗教問題の専門家たちに、“宗教とは効率よく自由を制限するもの”、“二面性の原則を守っていれば宗教は自由を制限してよい”という認識がないと、その宗教がどれほどの効率を達成していても、自由でないことが問題視されてしまいます。彼らが『エホバの証人の子供たちは自由が制限されている』と指摘すると、そのこと自体がきわめて深刻な問題とされます。そして、その問題を解決する方法が話し合われます。特にヨーロッパでは、宗教問題の専門家たちと法律の専門家たちによる、『エホバの証人を規制する法律』を作ろうという動きまでありました。
 もしこのような法律が施行されるなら、どうでしょうか。エホバの証人社会はもっと自由な社会になりますが、その代わり、あえて自由を制限することで達成してきた、この宗教の良さも失われてしまうでしょう。

´「宗教における自由の二面性」

 エホバの証人が聖書の権威を重視し、聖書に忠実に従おうと努力していることについては、以下の「参考資料2: 『聖典主義について』」をご覧ください。


参考資料2: 「聖典主義について」(クリック(タップ)で展開されます)

●聖書に忠実に従おうと努力するエホバの証人

 エホバの証人は聖典主義の宗教です。
聖典主義についてはまた後日、整理したうえで記事にしますが、聖書に書かれていることに忠実に従い、聖書の教えを実践したいと考えています。
これには、不倫をしないといった聖書の道徳基準を守ること、天地創造やノアの洪水などの聖書中の記述を史実として受け入れること、伝道せよというイエス・キリストの教えを実行する事、組織構造や組織上の手順を1世紀のクリスチャン会衆の型に合わせること、「柔和な人になりましょう」といった人格面についての聖書的な要求を満たそうと努力する事などが含まれ、エホバの証人は信条・文化・行動・感受性・手続きなどありとあらゆる面で聖書の教えを実践し、聖書の例に自分個人や自分たちの組織を合わせようと努力しています。

 聖典主義を本気で実践しようとすると、大変な困難が伴います。
特に大切なのは、“常識”とか“現代的価値観”なるものを持ち出さないという事です。
ある人は、「今時、男性しか役職者になれないというのはいかがなものか。SDGsも叫ばれる中、ジェンダーギャップ解消の観点から、エホバの証人も女性を役職に就けるべきだ」と言うかもしれませんが、エホバの証人はこのような指摘を受け入れません。
男性のみが役職に就くというのが聖書が示す型だからです。
本気で聖典主義を実践しようとしている人に向かって、「普通は……」とか「今時……」などと言って“常識”や“現代的価値観”を持ち出しても、受け入れられないでしょう。
エホバの証人に女性を役職に就けさせたいのであれば、聖書を開いて、聖書から、聖書時代にも女性が役職に就いていたという例を示すか、女性を役職に就けるようにという神の明示的な指示を見つけ出して聖書から説得するしかありません。
(ちなみに、1世紀のクリスチャン会衆で女性が役職に就いていたと考える聖書翻訳者もいます。テモテ第一 3:11 は女性の役職者について述べているという解釈です。これについては、宮原崇さんのサイトの「テモテ第一 3:11」の項に解説があります。)

 ほかにも、エホバの証人に同性愛を認めさせたい人や輸血を受け入れさせたい人、安楽死や人工妊娠中絶や代理母出産を認めさせたい人、兵役に就かせたい人は、そのことを聖書から証明しなければなりません。
もし、聖書的な根拠があるなら、エホバの証人は聞く耳を持つでしょう。

´「排斥処分は残酷である、という報道を受けて´排斥処分に関する聖書的な解説(一部私見を含みます)」

信仰は捨てきっていないが、挫折してしまった人たち

 ネット上ではあまり見かけませんが、「疲れちゃった」というタイプの人たちです。
信仰は捨てておらず、エホバを悪く言ったりはしませんし、エホバの証人が真の宗教だと思っていますが、ただ、エホバの証人として活動することに疲れてしまい、「ちょっと休みたい」と思っている人たちです。
話を聞いてみると、実際にエホバの証人社会内でかなり不条理な経験をしたなどということもあり、「大変だったんだろうな」と思ったりもします。

 一時的に信仰が弱くなってしまうというのは、だれにでもあり得ることであり、こういった方々には同情を覚えますし、再び元気を取り戻してほしいと思います。

背教文書などの、エホバの証人に批判的なコメントを目にした時に考えるべきこと

 背教文書や攻撃的な論調の報道など、エホバの証人に批判的なコメントを見かけたら、次のように考えましょう。

これは、エホバの証人に対する批判だろうか、聖書そのものに対する攻撃だろうか

 エホバの証人を攻撃しているつもりで、実質的には聖書そのものを否定している主張というのがかなり多いです。
例えば、ヤフー知恵袋に、「ノアの洪水なんて架空の話に過ぎない」としてエホバの証人を貶す投稿があったのですが(品位を欠いたコメントなので引用は控えます)、「これってエホバの証人関係ないよね」と思ってしまいました。
聖書に間違いがあると言うのであれば、エホバの証人という特定の教派を引き合いに出す必要はないはずです。聖書を聖典とする宗教は世界にたくさんあるのですから。
なぜこのような主張が多数見受けられるのだろうかと考えたのですが、おそらく、エホバの証人が日本国内ではキリスト教の最大勢力であることや、カトリックやプロテスタントの多くの信者たちの聖書に対する信仰が中途半端なものに過ぎなかったり、北米に比べると日本では聖書を字句どおりに解釈する福音主義教会がほとんど目立っていないことなどが挙げられると思います。
ですから、聖書への批判がイコールエホバの証人に対する批判になるのです。

組織上の不手際などに対するもっともな指摘だろうか、エホバの証人の生き方そのものを嘲笑するような主張だろうか

 背教者の主張の中には「もっともな指摘」もあれば「言いがかりに過ぎないもの」もあります。
私たちエホバの証人の価値観や生き方自体を嘲笑したり侮辱したりするようなものもありますので、そういった批判を気にする必要はないでしょう。

 例えば、仕事の選び方など、エホバの証人の優先順位が世間一般の人の感覚とは異なっていることを小馬鹿にするようなコメント、性行動などの聖書の道徳基準を悪く言う意見などです。
これらのコメントについては、「それが聖書の価値観ですから」とか、「これが私たちエホバの証人の生き方ですから」と言うしかありません。

 こういった批判をする背教者や反対者、人権上の問題があると考えている識者は、聖書について詳しく知らなかったり、聖書の言葉を知っていたとしても、それを本気で実践しようとするエホバの証人の決意を理解していなかったりします。
そして、エホバの証人の統治体が教理を考案し、規則を乱発し、信者たちに対して人権蹂躙の過ちを犯している、と考えていたりします。
あるいは、ただ単純に、エホバの証人の非主流の信条を「変だ」とか「気持ち悪い」と思っているのです。
個人的な感想としてはあり得ると思いますし、否定はしませんが、こういったことがメディアで喧伝され、それに対する異論が全く紹介されないというのはよろしくないことだと思います。

この中見出しの参考資料

 エホバの証人の統治体が教理を考案しているわけではありません。
その点については、「参考資料3」をご覧ください。


参考資料3: 「エホバの証人の統治体が教理を考案しているのではない」(クリック(タップ)で展開されます)

引用1: エホバの証人は、自分たちが教理を考案しているとは考えていない

真の宗教の教理は人間が考案したものではなく、神によって授けられたものです。
とはいえ、現代では奇跡的な方法で理解が与えられることはないので、祈りのうちに聖書を調べ、神のお考えを見極めていく必要があります。

 宗教を外側から見ている人にとっては、このような考えは受け入れられないものかもしれません。
『この世の中にはたくさんの宗教があるのに、そのうちの一つだけが正しいなどという事が言えるのだろうか』、『自分たちの宗教が唯一の真の宗教だなどという主張は独善的ではないか』、『一つの宗教だけが正しいなどという考えは、排外主義にも似た危険な思想であり、宗教戦争や憎悪犯罪に繋がりかねないものではないだろうか』。こういった懸念は理解できます。
現に、今ロシアでは、エホバの証人は自分たちの宗教の優越性を主張していることを理由に、“過激主義者”のレッテルを貼られています。
しかし、聖書にはクリスチャンを独善的な狂信者にさせない安全装置とも言える教えが組み込まれています。
その点については後日別の記事に書きますが、ここで申し上げたいのは、『聖書の教えを誠実に実践しようとする真のクリスチャンたちは、自分たちの教理や信条を自分たちが考案したものだとは思っていない』ということです。

 これは、エホバの証人の統治体についても言えることで、統治体は、戦略上どのような教義を設ければ信者を増やしたり自分たちの求心力を保てるだろうか、などと考えて教理に関する決定をしているわけではありません。
エホバの証人の世界本部には聖書に関する膨大な知識を持った執筆チームがあり、統治体は自分たちの聖書知識が執筆委員会のスタッフたちの持つ知識ほどではないことを認めています。
そのうえで、執筆委員会に調査をさせたりアドバイスを求めながら、統治体が祈りつつ教理に関する決定を行っており、そこにはエホバからの導きがあると思っています。
反対者たちは、統治体が気まぐれに教理を変更しているかのような言い方をすることがありますが、エホバの証人組織はそのような俗人的なシステムにはなっていません。
教理に関する決定は最終的には統治体が承認する手続になっているとしても、優秀な専門家からなるリサーチチームが広範な調査を行って判断材料を提供する仕組みがあるのです。

 聖書が何とも述べていない事や、聖書の言葉が複数の意味に解釈し得る場合もあります。
また、世界情勢の進展を見極めつつ聖書予言を解釈するという事もあります。
判断に迷うこともあり、全員の意見が一致しないこともあります。
エホバに祈って導きを求めた結果、全員の意見が一致すれば、それがエホバのお考えなのであろうと考えられており、当然それには聖書の言葉の裏付けが必要です。(使徒 15:25)
統治体のメンバーが思い付きで何かを言ったとしても、聖書の裏付けがないのであれば、世界中の信者たちはその教えを受け入れず、相手にしないことでしょう。
聖書の裏付けと、祈りと、全員一致の決定´これにより、統治体は世界中の信者たちに教えを解き、指示を与えており、世界中の信者たちはそれをイエス・キリストからの指導として受け入れています。

´「宗教とは、人の弱みに付け込むコンプレックス産業なのか´聖書が示す宗教像」

引用2: エホバの証人の統治体が行っているのは「解釈の議論」であり、統治体は立法者ではない

●古代に書かれた聖書の教えを現代に適用するという考え方

 聖書は1900年以上前に書き終えられ、その頃には輸血などという医療技術は存在しなかったのに、エホバの証人が輸血をしないのはなぜだろう、と思われる方もいらっしゃることでしょう。
しかし、聖書を憲法に置き換えてみると、これはごく普通のことで、エホバの証人の統治体は、時代に合わせて法典を解釈して当てはめるという当然のことをやっているだけだということが分かります。

●「法律は条文を読み、憲法は精神を読む」

 『法律は条文を読み、憲法は精神を読む』という考え方があります。
法律というのは、主権者である国民を処罰したり、国民に義務を課したりするものなので、適当に引き延ばして拡大解釈することは許されません。
どんなに非道徳的な行為であっても、その行為を処罰する法律がないのに制裁を課すことは許されませんし、後から法律を作って遡って処罰することも認められません。
これに対して、憲法は、国民の権利を規定したりするものなので、その精神を汲み取って拡大解釈することは許されます。
日照権やプライバシー権など、憲法が作られた当初は権利として認められていなかったものであっても、後から追加されていった考え方もあります。
日本の場合、日本国憲法第13条にある『幸福追求権』がその根拠とされることが多いですし、米国の合衆国憲法では、憲法に特定の権利をいくつか列挙したからと言って、ほかの権利を否定する意味に解釈してはならないと謳われています(修正第9条)。
日本でも米国でも、主権者は国民です。主権者の権利を擁護するために時代に合わせて法典を拡大解釈するのは大いにけっこうということです。

 では、聖書についてはどうでしょうか。
聖書も憲法のような法典と見なせますから、聖書の言葉を拡大解釈するのは正しいことです。
なかには、聖書を法律のように読み、字句にこだわる人もいます。
しかし、聖書は法律のように字句にこだわって読むよりも、憲法のように精神を汲み取って読むのが正しい読み方と言えます。
聖書は1900年以上前に書き終えられたものであり、その言葉をそのまま現代には当てはめられないことが多いからです。

 一例として、出エジプト記にあるモーセの律法から、次の聖句について考えましょう。

 『もしあなたを憎む者のろばが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起さなければならない。』´出エジプト記 23:5、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 この律法から学べる教訓(律法に込められた精神)は、『隣人愛』と『動物を大切にすること』です。
21世紀の日本に住んでいると、ロバが荷物を運んでいる場面に遭遇することはあまりないと思いますが、この律法の教訓はありとあらゆる場面に適用できます。
『自分のことを快く思っていない人であっても、困っていたら助けてあげよう』とか、『エホバは動物の命も尊んでおられるから、動物をいたわってあげよう』といった教訓は、いろいろな状況に適用可能です。
しかし、もし聖書を憲法のように読むのではなく、法律のように条文にこだわった読み方をするなら、『自分を憎んでいるわけではないがなんとなくそりが合わない人にはこの律法は当てはまらない』とか、『ロバは助けるけれど牛の場合は助けなくてよい』とか、『荷物の下で倒れていたら助けるけれど、けがや病気の時に助ける義務はない』などと考えるかもしれません。
神に献身し、神に仕える生き方を決意した人が、このような聖書の読み方をしていてよいものでしょうか。

 『聖書を、憲法のように精神を汲み取って当てはめる』という読み方をする時に、一つ留意しなければならないことがあります。
先日の記事にも書いたとおり、日本や米国では国民が主権者ですが、天の王国では統治者が主権者だという違いがあるという事です。
各地の会衆の一般信者たちを日本や米国などの国民に、統治体を国会議員に例えて、『統治体は信者の権利を制限する規則をむやみやたらに作っている』と批判する人がいますが、そういう考え方は根本的に間違っているということです。
日本や米国の国民は天の王国に例えるとエホバです。エホバが王国の主権者だからです。
また、国会議員も裁判官も大統領もエホバです。イザヤ書 33:22に『まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる』とあるように、エホバは三権の長を兼ねておられます。(新共同訳聖書、日本聖書協会、引用は一般財団法人日本聖書協会公式ウェブサイト 聖書本文検索から。)
私たち一般信者は憲法擁護義務を負う公務員のような立場にあり、統治体はそれら公務員を監督する人事院や内閣人事局みたいなものです。あるいは、憲法解釈を行う内閣法制局のようなものです。統治体が、『あれをしてはいけない』とか『これをすべきである』と言ったとしても、それは主権者であるエホバの意向を最大限汲み取ったものであると言えます。
国にとって一番大切なのは、主権者の権利です。

 では、日本や米国のような国で、主権者を処罰する法律があるのはなぜでしょうか。
それは、人間が不完全だからということと、主権者が複数(1億人以上)いるからです。
窃盗という犯罪は、主権者が別の主権者の権利を侵害するものですので、被害者の権利のためにも処罰が必要です。
このように、主権者の権利と主権者の権利が競合するような場合に、それを調整する役割として法律が必要であると考えられています。

 しかし、天の王国(神の国)の場合は異なります。
エホバは不正を行わない完全に清い方であり、なおかつ主権者はエホバただお一人しかいませんので、主権者の権利と別の主権者の権利の調整を図るという考え方は不要であり、主権者であるエホバを処罰する法律など必要ないのです。
ですから、天の王国にはその種の法律は存在しません。

 反対者はよく統治体が示す方針を非難しますが、聖書を憲法、エホバを国民、クリスチャンを公務員に置き換えると、その種の批判が的外れなものであることがよく分かると思います。
統治体が行っているのはあくまで聖書を現代に当てはめるという解釈の議論です。立法者はエホバです。

 しかし、こういう聖書の読み方はエホバの証人に特徴的なもので、他教派にはあまり見られないものです。
その点について以前の記事に書いていますので、以下引用します。

 『カトリックやプロテスタントの神学書では、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語やラテン語など、原語に関する専門的な情報や、その聖句が書かれた当時どういう意味を持っていたかという背景情報についての詳細な解説がある一方で、聖書の教えの現代への適用は全く語られていなかったりします。
私たちはよく、「タバコを吸ってはいけないなど、聖書のどこにも書かれていないではないか」などと言われたりしますが、現代への適用を無視して「書かれた当時の意味」だけを読んでいると、このような聖書の読み方になってしまいます。

 天気予報を見るとき、気象予報士が、海水が蒸発して空気中を上昇し、塵と混じって雲を形成し、雲の中を上下しながら水滴が大きくなり、雨となって降ってくる経緯を、難しい専門用語で長々話しているとしたらどうでしょうか。
私たちが知りたいのは、そういうことではないはずです。
明日は傘を持って行ったほうがいいのか、布団を干しても大丈夫なのか、知りたいのはそういうことです。
原則の適用を考えず、読者に行動を促さない神学書は、正確な専門知識が書かれているとしても、人生の導きにはなりません。

 最初にも述べたように、聖書は2000年前に書き終えられました。今私たちが生きているこの時代に、これ以上聖典が書き加えられることはありません。
ですから、私たちは聖書を読むとき、現代への適用を自分の頭で考えなければなりません。
聖書は、良いことも悪いことも、全てを列挙しているわけではありません。
正しいことはこれとこれとこれなど、悪いことはこれとこれとこれなどという書き方をしていますので、私たち一人一人は、「『など』とは何か」を考え続けなければなりません。
「言われたことだけやっていればいいや」ということでは、エホバのお気持ちを汲み取っているとは言えず、聖書から学んでいるとは言えません。

 これからも、新しいビジネス、新しい医療技術、新しい娯楽、新しいライフスタイルが次々と出てきます。
その都度私たちは、聖書の言葉に照らし合わせて、自らの頭で考えて、価値判断を行っていかなければなりません。
そのためには原則の適用という読み方は必須であり、その際に聖書から逸脱しないために、背景的な知識が必要になってくるのです。』´「文脈における意味と原則の適用の両方を考えて聖書を読む」

(※ この中見出しで述べた点については、宮原崇さんのコラム「キリスト教と戒律主義」でも取り上げられています。宮原崇さんのコラムでは、聖書を憲法に、聖書の現代への適用を法律に置き換えて説明しており、この記事とは例えの当てはめ方が異なる点にご留意ください。)

´「『輸血を拒否するのが最善の医療かどうか』が真の争点になりそう」

 背教者や元信者や反対者や学者など、エホバの証人の非主流の信条を「変だ」と思っている人たちは大勢います。
これをどう考えれば良いでしょうか。
その点については「参考資料4」をご覧ください。


参考資料4: 「風変りな慣行や非主流の信条への拒絶反応´エホバの証人は『変だ』と思っている背教者・元信者・識者たち」(クリック(タップ)で展開されます)

引用1

新しい宗教が『なんだか怪しげだな』と思われるのは、その宗教の慣行や信条が世間一般のものとは異なるからです。
歴史が長い宗教の場合、その宗教行為が世間一般から受け入れられていたりするものなので、歴史の長い神社がはだか祭りをしていても、カルト呼ばわりされることはなく、むしろ自治体のホームページで宣伝されていたりするほどです。
ヨーロッパの教会の壁に描かれている子供の裸を写真に撮って出版しても、条例で規制されることはありません。(この点は、日本で児童ポルノに関する法整備をする時に議題に挙がりました。)

 しかし、新しい宗教の風変りな慣行や非主流の信条は、なかなか受け入れられないもので、人々の拒絶反応も大きいです。
これが、時間とともに解決していくものなのか、世俗化が進んだ現代では新宗教の信者はいつまでも奇異な目で見られ続けるのかは分かりません。

引用2

このようなことを語っている人がいます。(当ブログでは、元エホバの証人や、エホバの証人に反対する活動を行っている人の発言を直接引用することは控えています。複数の事例を参考に言葉を言い換えたり話をまとめたりして『ありがちなケース』として紹介していますので、このような形で事例を紹介することには問題はないと考えています。(著作権法違反(引用元の不明示)には当たらないと考えています。)『エホバの証人に批判的なコメントを見たときに考えるべきこと(当ブログの背教文書に対する見解も)』という記事末尾の補足もご覧ください。)
『私が子供の頃、母がエホバの証人になりました。父はそのことに大反対で、よく包丁で母を脅したりしていました。父の親族が亡くなった時には母は葬儀に参列せず、父の親族との関係は悪化しました。母が宗教にのめり込まなければ、私は両親の愛情を受けて普通に育つことができていたと思います。エホバの証人は家庭崩壊をもたらす危険なカルト宗教です』。
この主張にはいくつもの不自然さや論理の飛躍があります。
まず、明らかに異常なことをしているのは包丁を突きつけて脅している側なのに、どういうわけか『エホバの証人が家庭崩壊をもたらした、エホバの証人は危険なカルト宗教だ』という結論が導き出されているのです。
平和的に信仰を実践したいと願っているエホバの証人に対して周囲が攻撃的な行動を取っていても、なぜか『宗教が危険だから』という結論になってしまうのです。
しかし、このような考え方は暴力行為や脅迫を正当化しているような見方でもあるので、非情に危険と言えます。(エホバの証人は変な人たちだから暴力や脅迫を受けても無理もない、と言っているのと同じことになります。)

 エホバの証人は平和的に信仰を実践したいと願っています。(テモテ第一 2:2)
しかし、周囲の人たちがその信仰に反対し、乱暴なことをする場合があります。
この場合、原因は『聖書の教え』や『エホバの証人の信仰』にあるのでしょうか。
学校で一人だけ瞳の色が違う子供がいて、それをきっかけとしていじめが起き、クラス内の平和が乱された場合、原因はいじめのターゲットとされた子の瞳の色にあるのでしょうか。その子にカラーコンタクトを着けさせることが“解決策”になるのでしょうか。
これは危険な考え方であると言わざるを得ません。

 この点で多くの人が誤解しているのが、宗教とは食べ物の好き嫌いのようなものであるとか、矯正すれば治る癖のようなものであるという見方です。
こういった見方は、宗教に対する無理解からきており、基本的な教養がないと言ってもいいくらいです。
一度神を信じた人に『信仰を捨てなさい』とか『良心に反する行動を取りなさい』と言ってもそれは無理な話ですし、例え言い方が優しかったとしても言われた側としては大きな苦痛を感じることでしょう。
食物アレルギーのある人の口に食べられない物を無理やり突っ込んでいるようなもので、言い方に関係なく乱暴な言動と言えます。

……

 先ほど紹介した事例にもう一度立ち戻ってみましょう。
『私が子供の頃、母がエホバの証人になりました。父はそのことに大反対で、よく包丁で母を脅したりしていました。父の親族が亡くなった時には母は葬儀に参列せず、父の親族との関係は悪化しました。母が宗教にのめり込まなければ、私は両親の愛情を受けて普通に育つことができていたと思います。エホバの証人は家庭崩壊をもたらす危険なカルト宗教です』。
このコメントに出てくる『宗教にのめり込む』という表現には、宗教をちょっと下に見た見方が表れています。
これを語った人が、エホバの証人に限らず宗教全般を敵視する『反宗教』の立場を取っているのかどうか、私には分かりません。
ただ、引用しなかった箇所も含めて、この方は基本的に、エホバの証人特有の教条を『変だ』と思っていて、母親がその『変な』価値観に沿って行動するようになっていくことに違和感を感じていたようです。
これは、理屈の問題ではなく、『生理的に受け付けなかった』という話なのかもしれません。
個人の感想としてそういうことを感じたとしても、それを否定したりすべきではありませんが、こういった発言を取り上げるメディアの側には、社会の公器としての振舞い方が期待されると思います。
単なる、一人の人の不快感を根拠として、『エホバの証人は危険なカルト教団だ』などとは言えないはずだからです。

そもそも、「反宗教」という観点からの批判ではないだろうか

 宗教自体を敵視しているような人もいます。
エホバの証人の体罰問題にコメントして、「そもそも神なんていない」などと書き込んでいる人もいます。
エホバの証人社会内にどういう問題があったかということと、神が存在するか否かは関係ありませんし、論理が飛躍した的外れなコメントですが、うけはいいようです。

相対主義を絶対視している人の主張だろうか

 「相対主義を絶対視している人」というのもいます。
特定の宗教組織に入ると客観的なものの見方ができない人間になってしまうとか、一神教の神を信じると狭量な人間になってしまうとか、特定の道徳観を正しいものとして掲げることは差別に繋がる、と考えているような人です。
こういう人たちは、信教の自由を尊重するのは良いことだと思っていたりもするので、エホバの証人の活動を弾圧しようなどとは考えておらず、状況によってはエホバの証人を擁護してくれることもあります。ただ、自分が聖書を学ぶとか集会に出席するとかいったことについてはかなり慎重です。
このタイプの人たちからは、なかなか興味深い指摘があったりもするので、それらの質問に答える記事を、後日書きたいと思います。

 上にいくつか例を挙げましたが、エホバの証人を批判する意見の大半は、聖書そのものを否定していたり、私たちエホバの証人の信条や行動が世間一般の人と違っていること自体を問題視するような内容のものです。
違っていること自体が問題である、という感覚は、多様性を尊重しようという昨今の風潮に逆行するものですし、全体主義的であるとも言えると思います。

「背教者と関わってはいけない」という聖書の教えをどう実践するか

 ここまで、いろいろと書いてきましたが、背教者との関わりについて、聖書の見方を復習しておきましょう。
背教者について、聖書はこんなことを言っています。

 神を信じない者になんの望みがあろう。´ヨブ記 27:8後半、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 21 主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、あなたに逆らって起り立つ者をいとうではありませんか。
22 わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。
´詩篇(詩編) 139:21-22、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 ヨブ記の聖句は、背教者には望みがないということを言っており、詩篇の聖句は、背教者を憎むべきだと言っています。
聖書は、ピリピ(フィリピ) 2:3-4 などで全ての人を敬うよう勧めていますが、その中に背教者は含まれないのです。
むしろ憎しみを抱くべきだと言われています。

 詩篇の聖句が憎むべきだと言っている背教者とは、「エホバを憎む人」のことです。
離れ落ちた全ての元信者が、この意味での「背教者」に該当するわけではありません。
中には、弱さゆえに躓いてしまった、助けを必要としている人もいるからです。
とはいえ、私たち一般信者が、排斥された人とコンタクトを取ることはできませんので、そのような元信者は、自分から行動を起こす必要があります。
そのようにしてエホバに助けを求める時、エホバは愛と憐れみを示してくださるはずです。

 中には、エホバの証人社会の問題点を指摘したり人間がしてしまった失敗を批判するに留まらず、エホバを侮辱したり聖書的価値観を軽蔑する元信者もおり、こういった人たちについては、詩篇 139:21-22 の聖句を適用するしかないでしょう。

 では、クリスチャン・ギリシャ語聖書は背教者について何と言っているでしょうか。

 ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。´テモテ第二 3:8、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 パウロはこのように、真理の道から逸れていった背教者たちのことを、痛烈な言葉で非難しています。これはかなり強烈な表現です。

 とはいえ、パウロはこういうことも書いています。

 23 愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
24 主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
25 反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
26 一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。
´テモテ第二 2:23-26、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 聖書は、「背教=許されない罪」とは言っておらず、クリスチャン会衆内で聖書からの教えに公然と反対していたような反抗的な人にも悔い改めのチャンスがあることを示しています。
古代イスラエルにも、マナセ王のような例もありますし、背教者が悔い改めるというのは十分あり得ることなのです。
それで、背教者を憎み、排斥者と交渉を持たないというのが聖書の指針ではあるのですが、背教者の中にも程度の差があること(自分につかせようとして嘘をつく扇動的な背教者と、それら扇動的な背教者の犠牲になってしまった背教者がいること)、背教者にも悔い改めのチャンスがあるということは覚えておく必要があります。
(背教者やその他の排斥者、断絶した人に対する接し方については、当ブログの記事、「排斥処分は残酷である、という報道を受けて´排斥処分に関する聖書的な解説(一部私見を含みます)」をご覧ください。)

背教者の主張に耳を傾ければ、「公平で客観的な見方」ができるか

 正しい判断をするためには、様々な立場の人の意見を聞くことが重要です。
先入観を持たず、公平にいろいろな意見を聞いて初めて、人は客観的に考えて、正しく判断することができるのです。
例えば、医療の分野では、セカンド・オピニオンという言葉をよく聞くようになりました。主治医にいろいろと診てもらうわけですが、別の医師の意見も聞くことによって、ほかの治療法を提案してもらえたり、別の病気の可能性が指摘されることもあります。二人目の医師に診てもらったことで命拾いしたという人もいます。

背教者の意見に耳を貸すことについて、同じことが言えるでしょうか。
「統治体や仲間の信者が言っていることばかり聞いていたら客観的な見方ができず、正しい判断ができない。背教者の主張にも公平に耳を傾けるべきだ」ということになるでしょうか。
そうとは言えません。セカンド・オピニオンの場合、客観的な見方をするために複数の人の意見に耳を傾けますが、それらの人たちには共通点があります。どちらも医師である、ということです。知識があり、資格があり、私たちの健康を気にかけてくれる人たちです。

 背教者は、私たちの霊的健康のことも、永遠の将来のことも、全く気にかけておらず、その目的は、私たちの信仰を打ち砕き、霊的な破滅に至らせることにあります。
いくら、「いろいろな人にアドバイスを求めるのが大事」と言っても、自分を傷つけようとしている人や殺そうとしている人にアドバイスを求めることはないでしょう。
「バランスの良い食事が大事だからいろいろな物を食べる必要がある」と言っても毒を飲んだりはしないように、明らかに有害な情報を、好んで読み漁ったりはしないはずです。

 それでも、様々な角度から証拠を比較することによって、公平で客観的な観点から、正しい判断をすることができます。
例えば、新世界訳聖書の欄外参照聖句を調査していくと、聖書の全ての書が矛盾なく調和しているということが分かります。(「聖書の矛盾´浅はかな批判論と浅はかな擁護論を越えて」という記事もご覧ください。)
エホバに祈り、祈りが聞かれたという経験を重ねていくことで、エホバへの愛着が深まりますし、聖書の教えを実践して物事がうまくいくという経験を繰り返すと、エホバの知恵の素晴らしさが分かります。
ライフストーリーを読んだり身近な兄弟姉妹の経験を聞くことで、エホバがそれらの人たちをどう支えてこられたかを知り、信仰を深めることができます。
「聖書 神の言葉,それとも人間の言葉?」という書籍からは、写本や考古学といった観点から聖書が信頼できる本だという事がよく分かりますし、「『来て,わたしの追随者になりなさい』」という書籍からは、イエスの完ぺきな手本に表れているエホバの愛や知恵を味わうことができます。
エホバが造られた星や動物や美しい風景を観察することからも、エホバの気遣いやユーモアを感じ取ることができます。(ローマ 1:20)
このように、様々な角度から複数の証拠を客観的に比較して、信仰を育むことができるのです。
それで、客観的に考えるために背教者の主張に耳を貸そうなどと考える必要はなく、背教文書をあれこれ調査する必要はありません。

 また、エホバのお気持ちという事も無視してはいけません。
背教者の主張に耳を貸そうとすることを、エホバは喜ばれません。
背教者と関わりを持たないことには、エホバへのゆるぎない愛が関係しているという事を忘れないようにしましょう。

今の時代、背教者の情報を完全に避けることはできない

 好き好んで背教者の情報を読み漁ったりはしないとしても、今の時代、背教者が発信する情報を完全に避けることはできないでしょう。
ネットで調べ事をしていたら偶然背教者のサイトが出てくるとか、テレビを観ていたら偶然背教者が出てきて何かを語り始める、といったこともあるでしょう。
ですから、背教者の主張に耳を貸さないことは重要ですが、偶然耳にしてしまったときの対処法を知っておく必要はあるでしょう。

 背教者からの指摘でよく言われることについては、批判に対する反論がいろいろな記事で取り上げられていますので、ものみの塔出版物索引から情報を探すと出てきます。
また、上に書いたように、背教者が主張するエホバの証人への批判の大半は、聖書そのものを否定する内容であったり、特定の個人の失敗を批判するものであったり、宗教全てを否定するような価値観から出たものであったり、感情的にこじらせてしまった人の逆恨みであったりします。
そういった点を覚えておいて、何か背教者の主張を見かけた時には、「これは聖書自体を否定する主張だな」とか「エホバの証人の生き方や聖書的価値観そのものを嘲笑する内容だな」などと見極めるようにしましょう。

背教者の主張に『聞くべきところがある』と思える場合

 背教者の指摘に『聞くべきところがある』と思える場合もあるかもしれません。
そのような時には、「王国宣教」1992年12月号の「質問箱」に掲載された手順に沿って、支部事務所に手紙を送ることができます。
こういった、世界各地の支部に寄せられる信者たちからの質問や指摘を受けて、教理が改定されることもあります。
手紙を送る前には、聖書を徹底的に調べ、何かを指摘したいのであれば、その聖書的根拠と思えるものを全て列挙しましょう。
場合によっては、あなたからの質問が教理の改定に繋がり、「ものみの塔」の「読者からの質問」などで取り上げられるかもしれません。
とはいえ、すぐに答えが与えられないとしても、短気になってはいけません。聖書や組織に何かしらの疑問があったとしても、エホバが神であることや、統治体を情報伝達の経路として用いておられることに変わりはありませんから、信仰を失わないようにしましょう。

一番気を付けるべきは、エホバの証人組織内での背教

 最後に、私たちが最も気を付けなければならない背教について考えましょう。エホバの証人組織内での背教です。
2021年の年次総会の講話の中では、今は「回復の時」(使徒 3:21)であり、聖なる力によって選ばれた人全員が天に行っても、残された大群衆が背教することは決してない、ということが語られました。(JW Broadcastingの2022年2月のマンスリープログラムで取り上げられています。こちらの動画の1時間13分14秒ごろからご覧ください。)これはエホバの心強い約束です。
とはいえ、現代のエホバの証人社会が集団的背教という問題に全く直面しないと断言することはできません。
大群衆はグループとしては清さを保ち、救いに至りますが、それまでの間、どの程度の規模かは分かりませんが、背教という問題に直面する可能性があります。
だからこそヨハネの手紙や黙示録には、次のような警告が書かれているのです。

 8 よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。
9 すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。
10 この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。
11 そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである。
´ヨハネ第二 8-11、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。´黙示録 2:2、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 詳細な解説は省きますが、背教を避けるようにという聖書の指示が、クリスチャン会衆の内部に当てはまり、会衆内で一般信者一人一人が「本物」と「偽物」を見極めなければならないということが分かります。
ただ長老団の決定に従って、排斥者や断絶した人だけを避けていればいいわけではないのです。

 いろいろなパターンの背教が考えられますが、中にはうぬぼれて自分の支持者を作ろうとする人もいるでしょう。
あるいは、先日公開した記事、「『疑問を抱くのは悪いこと』´元信者にありがちな心理状態、考え方、勘違い」の中で私が「別の宗教」と呼んだような、悪意なく少しずつ真の崇拝から逸脱してしまうタイプの背教もあり得ます。
悪意のない背教については、特定の人のことを悪く言う必要はなく、ただ優しく聖書からの助言を与えれば十分かと思いますが、放置してしまうと、会衆の全員が無意識的にエホバのお考えから逸脱してしまう危険をはらんでいるので、用心しなければならず、軽視できない問題です。
真の崇拝からの逸脱に繋がりかねない、危うい兆候を察知したなら、できるだけ迅速に手を打つ必要があります。

まとめ

  • エホバの証人に批判的なコメントをする人の中には、いろいろな動機、経緯、価値観の人がおり、批判の内容も様々です。
  • 多くは、聖書そのものを否定する主張であり、そもそも宗教全般を敵視している人もいますから、それらを見極めることが重要です。
  • 背教者の主張に好奇心を持つべきではありませんが、偶然目にしてしまうことはあるので、対処法を知っておくことは重要です。
  • 背教者の意見に耳を傾ければ客観的な見方ができるというものではなく、背教者と関わらない事にはエホバへのゆるぎない愛が関係していることを覚えておくべきです。
  • もし仮に、背教者の主張に『聞くべきところがある』と思えるなら、本部や支部に手紙を書くことができます。
  • 最も警戒すべきは、エホバの証人組織内における背教です。

参考リンク

エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)の公式ウェブサイト jw.org から

「『ものみの塔』2011年2月15日号 19ページ 『受けている祝福への認識と感謝を本当に抱いていますか』」  背教者の影響を受けて一度はさまよい出てしまったものの、エホバの側に立ち返ることができた兄弟の体験談が書かれています。背教者の文書に興味を持つべきではない事、仮にさまよい出てしまったとしても戻ってくることは可能だという事が分かります。

「ものみの塔出版物索引の『背教』の項」  背教について調査したい方は、こちらから各種資料をご参照いただけます。

当ブログの記事

「類型を整理: 『元エホバの証人』を名乗る人たちの様々なタイプ  元信者にもいろいろなタイプの人がいます。それらを分類別に整理しました。

「『疑問を抱くのは悪いこと』´元信者にありがちな心理状態、考え方、勘違い」  エホバの証人組織内にいながら“別の宗教”を実践してしまうことの危険について書きました。

「適度な飲酒量とは´『原則と良心』という語を多用する危険」  「原則」や「良心」という語を不適切に多用して聖書から逸脱してしまうという種類の『悪意のない背教』という問題を取り上げています。

補足: 当ブログの、背教文書に対する見解と、背教文書の取り扱いについて

 このブログでは、背教文書の紹介や引用は行いません※。
書籍名やサイト名を挙げたり、リンクを貼ったりすることもありません。
背教文書に接してしまって悩んでいる兄弟姉妹を助けたいとは思いますが、背教文書を読んでいない人が、私のブログをきっかけに背教文書を読むようになることは望みません。
それで、背教者の主張に言及する場合には、言葉を言い換えたり複数の事例をまとめたりして「よく背教者たちが言っていること」として引き合いに出したうえで、それに反論する文章を書いていったりします。
言葉はいろいろと置き換えたりしていますので、この方法で問題はないと考えています。(著作権法違反(引用元の不明示)には当たらないと考えています。)

 なお、背教文書かどうかはその内容で判断します。著者の属性で判断するわけではありません。
元信者であろうと、バプテスマまでは進んでいないエホバの証人二世であろうと、著者が「現役エホバの証人」と名乗っていようと、背教文書かどうかは内容で見極めます。
エホバに対して侮辱的な表現を使っていたり、「神に不満はないがエホバの証人組織に問題がある」という言い方で聖書の教えを軽視することを言っていたり、エホバが用いておられる人たちへの敬意が感じられない表現を使っていたり、なにかと嘲笑的であったり皮肉めいていたり、そういったものは背教文書と見なしてよいでしょう。
エホバの証人を批判するコメントの中には「健全で妥当な指摘や批評」もあることでしょう。背教文書か健全な批評かは、「聖なる力が生み出すもの(霊の実)が感じ取れるかどうか」で見極めます。それはそんなに難しいことではありません。
エホバ神への信仰と聖書を愛する心とエホバが用いておられる人たちへの敬意を持った人が低調に異論を唱える場合、「この人は背教者だ」と性急に断じるべきではないでしょう。これを見極めるのは、そこまで難しいことではないはずです。

(※ 当ブログでは背教文書の引用は行いませんが、リンク先の外部サイトでは反論目的で背教者の主張が引用されていることがあります。)

この記事にコメントする  目次に戻る  カテゴリー一覧へ  ブログのトップページへ