エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

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 エホバの証人に関する話題を、一人の一般信者の素朴な視点から綴り、感想や観察を述べていきます。

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エホバとイエスの教え方に“慣れる”ことの大切さ

 私たちエホバの証人は、日々、エホバとイエスへの愛を実証していきたいと願っています。
とはいえ、エホバのお考えがよく分からないこともあり、「このやり方で良いのだろうか」と考えながら手探りで聖書の教えを実践しなければならないことも多いです。

 エホバもイエスも、「独特の教え方」をなさる方で、私たちはその教え方に慣れなければなりません。
聖書中には、エホバとイエスの教え方に当惑させられた人たちの例がいろいろと書かれていますが、大切なのは、「何があっても付いていく」という忠節審で、それを持ち続ける人が祝福されるのです。
例えばこのような例があります。
 51 『わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である』。
52 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、『この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか』。
53 イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』
60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』。
66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
67 そこでイエスは十二弟子に言われた、『あなたがたも去ろうとするのか』。
68 シモン・ペテロが答えた、『主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています』。
´ヨハネ 6:51〜56,60,66〜69、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 ところどころ抜粋して引用しましたが、35節あたりから読むと良いと思います。
イエスはここで、聴衆が自分の言葉の意味を誤解していることを知りながら、誤解を正すのではなく、あえて彼らが反感を抱くような話し方を続けます。
「私の肉を食べ、血を飲みなさいとは、人肉嗜食のことではなく比ゆ的な意味なんですよ」と言えば良いように思いますが、聴衆が誤解するに任せ、彼らを余計に怒らせるような話し方を続け、弟子たちの忠節審を試されました。
そんな中でもペテロはイエスを擁護し、ゆるぎない愛を言い表しますが、ペテロも、イエスが言われたことの意味が理解できていたわけではありません。
ですからこれは、比喩表現を理解できるかどうかという国語力の問題ではなく、理解できなくてもイエスを見捨てないかどうかという試みでした。

 この話から学べる教訓の一つは、私たちはエホバとイエスの教え方に慣れなければいけない、ということです。
理解できないことがあっても付いていき、お二方を見捨てない事です。

 これは盲信ではなく信頼です。
エホバとイエスが何をしようとしておられるのかはよく分からないけれど、お二方ならきっと悪いことは考えておられないはずだから信頼しよう、という姿勢が求められているのです。
エホバもイエスも、何をしようとしているのかという詳細な情報を与えないことがありますが、お二方の人格が信頼に値するものであるという証拠はきちんと提示してくださっています。
エホバもイエスも、私たちに危害を加えるようなことは決してありませんし、贖いの犠牲を差し出されるほど公正を愛される方です。
そういう証拠があるので、理解できないことが時々あったとしても、お二方から離れようなどとは考えないでしょう。

 それではここで、私たちが慣れなければいけないエホバとイエスの教え方の例をいくつか見ていきましょう。

私たちが慣れなければいけないエホバとイエスの教え方の例

最初から全ての情報を与えたりはされない

 エホバは、最初から全ての情報を与えて全体像を把握させ、私たちを安心させてから指示を与えるという方法を採らないことがほとんどです。

 例えば、創世記 3:15で、罪を持つようになった人類を何らかの方法で救済するという宣言をなさいます。
それから2000年後に、ノアを通して、セムの家計から人類への祝福がもたらされることを表明し(創世記9章)、その後、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデと、救世主に至る家計が絞り込まれていきます。
さらに、その救世主を通して何をなさりたいかも、徐々に明らかにされていきます。

 1世紀には、イエスが地上に来た意味や、モーセの立法の意義、聖なる力によって選ばれることなどに関する情報を段階的に与えました。

 エデンでの反逆の時点で全ての情報を与え、納得させてから従ってもらう、という方法は採りませんでした。
ですから私たちは、今与えられている情報で満足し、エホバがより深い理解を与えてくださる時を待たなければなりません。これには忍耐力が必要です。
(エホバが長い時間をかけて段階的に啓示を与えてこられたことについては、「エホバに近づきなさい」という書籍の第19章、「神聖な奥義の中の神の知恵」に詳しく書かれています。

「今与えられている情報で満足する」ということについては、JW Broadcastingの2020年6月のマンスリープログラム、ギレアデ第148期卒業式での「イエスの慎みに倣う」という講話の中で語られています。こちらの動画の9分32秒ごろからです。)

今後どんな割り当てを与えるつもりでいるかという情報を与えないことが多い

 エホバは、今後どんな割り当てを与えるつもりでいるか、といった情報を前もって与えるという事は現代ではなさいませんし、聖書時代にもそのようなことは稀でした。(サムソンなどの例がありますが、稀なものです。)
ある人が生まれた時点で、「この子には将来こんな割り当てを与えたい」とエホバが定めておられるという事は、もしかすると今でもあるのかもしれませんが、例えあったとしても、本人にも周囲の人たちにも、それを知るすべはありません。

 外国語会衆で奉仕するために一生懸命外国語を覚えたのに、移動した先の外国語会衆が閉鎖してしまったという兄弟姉妹もおられるでしょう。
開拓奉仕を始めたけれど、親の介護が必要になり、辞めざるを得なかったという方もおられます。
ものすごく重い責任を委ねられて、自分にはとてもできない、と思えたり、せっかく新しい仕事を覚えたのに、割り当てが変更になるのが不安だ、という方もおられるでしょう。
そんな時に、自分に対するエホバのお考えとは何なのだろうか、次はどんな割り当てが与えられるのだろうか、とあれこれ考えてしまったりするものです。
しかしエホバは、5年後とか10年後にどんな割り当てを与えるかを本人に予め告げる、という形で安心感を与えることはされません。
それで、自分の喜びが特定の割り当てに依存しないようにする必要があります。
エホバに用いられていること、エホバの友であること、日々エホバと共に歩み続けていることに感謝し、エホバそのものを自分の喜びの拠り所にする必要があります。(詩篇 37:4)
この点は、「エドワード・アルジャン:重要な諭し」という動画の中で語られています。こちらの動画の34分48秒ごろからですが、とても良いお話なので全編ご覧いただきたいです。

「退屈さ」に耐えられるかどうかが試されることもある

 時には、「退屈さ」という試練もあります。
毎回の集会で新しい理解やワクワクする発表が与えられるわけではありませんし、クリスチャンとして守るべき日課を地道に守っていくのは、簡単なことではありません。

 聖書研究生も、この種の試練に直面することがあります。
当初は毎回のレッスンで心が高揚していたものの、聖書レッスンの期間が長くなって、聖書の教えの全体像が大体分かってくると、新しい情報によって心が高揚するという事はあまりなくなっていくものです。
司会者の教え方があまり上手でなくてさらに退屈さが増すこともあるでしょう。

 こんな時に思い出したいのが、荒野でのイスラエル人です。
劇的な形でエジプトから救出されたにもかかわらず、すぐにエホバに不満を言うようになり、エホバが毎日養ってくださっているにもかかわらず、マナを食べ飽きて愚痴をこぼすようになったのです。(出エジプト記16章、民数記11章など。)
こういった記述を読んでいると、「なんと不敬なことか!」と思う一方で、「その気持ち分かるな」とも思えてしまうかもしれません。
不完全な人間というのはそういうものです。

 長年の経験を持つある姉妹は、1982年に日本語版の新世界訳聖書全巻が発表された時には本当に感動して興奮し、毎日欠かさず読みたいと思ったけれど、その気持ちを維持するのは大変だったとも語っておられました。(2019年に改訂版が発表されるより前に伺った話です。)
毎日のように気持ちが高揚する劇的なことがあるわけではない中で、聖書を読んだり集会の予習をしたり、霊的健康を守り続けるのは簡単なことではありません。
これも信仰の試みです。

規則を与えつつ、“規則を破る信仰”を期待される

 統治体はあまりこの点を強調しませんが、これもエホバの教え方の一つです。
エホバは人間に、「これをしなさい」とか「あれをしてはならない」という指示を与えつつ、一方では信仰ゆえに規則を破ることを是とし、「規則を破るほどの信仰」を期待しておられます。
規則を破るといっても、どんな規則でも無制限に破って良いわけではありません。
規則の重要度には大小あり、大きい規則を守るために小さい規則を破ることは許されるのです。
つまり、正しく例外を見極めるという事です。

 偶像崇拝をしてはならない、性的不道徳をしてはならない、といった大きな規則に例外はありません。
しかし、組織上の指示などの小さな規則には、例外がないわけではないのです。

 例えばこんな例があります。

 24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。
25 さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。
26 多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。
27 この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。
28 それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
29 すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。
30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた。
31 そこで弟子たちが言った、『ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか』。
32 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。
33 その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
34 イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』。
´マルコ 5:24〜34、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 この女性は、モーセの立法では、儀式上けがれた状態にあり、人前に出てきたりイエスの衣服に触ったりすべきではありませんでした。
しかし、イエスは彼女の信仰をご覧になり、褒めたのです。
イエスに聖なる力を与え、女性の病気を治されたのはエホバですから、エホバもその女性の行動を是としておられたことが分かります。
これが、エホバとイエスの見方です。

 私たちはときに、「愛のため、信仰のために規則をどこまで破れるか」が試されています。
そんなときにどうするでしょうか。
目の前に困っている人がいるのに、「これは私の仕事ではない」とか「管轄が違う」などと言って助けの手を差し伸べないような、パリサイ派のような考え方をするでしょうか。
もし、会衆内のだれかが、信仰ゆえに規則を破ったとき、その人の信仰を見て褒めますか、規則を破ったこと自体を批判しますか。

 隣人愛のために規則を破る際には、是非この言葉を思いに止めていたいと思います。

 27 あなたの手に善をなす力があるならば、これをなすべき人になすことをさし控えてはならない。
28 あなたが物を持っている時、その隣り人に向かい、『去って、また来なさい。あす、それをあげよう』と言ってはならない。
´箴言 3:27〜28、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
16 あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
´ヤコブ 2:15〜16、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 これらの聖句の意味を軽視している人が多いように思います。
これは、組織上の取り決めに関する指示を守って長老に従う、ということよりもずっと大事な話です。
しかも、そんなに難しいおきてではありません。
ただ、人を愛すれば良いのです。

 統治体も、「霊の実のために規則を破ることは場合によっては許されます」ということをもっとはっきりアナウンスしたほうが良いかと思います。
上に引用した病気を患った女性の話などは、雑誌や講話でよく紹介されるのですが、適用として、どのような規則違反は許容され得るか、ということをはっきり示し、同時に、「絶対に例外がない規則」についても説明し、原則と立法の優先順位を考えられるように信者たちを助けて欲しいとも思います。
(この点については、当ブログの記事、「聖書の原則を正しく当てはめるには」もご覧ください。)

時には、不条理を用いて愛と信仰の純粋さを試される

 エホバはときに、不条理を用いて愛と信仰の純粋さを試されます。
その中でもよくあるのが、「権威を持った人たちの不適切な言行」です。

 例えばサムエルは、祭司エリの息子たちがひどいことをしていて、父親のエリも軽くたしなめる程度のことしかしていない中で、エホバに対する信仰を失いませんでした。
ハンナはエリに誤解されましたが、そのことをいつまでもくよくよ考え続けたりはしませんでした。
イザヤやエレミヤなど、背教的な行いをしている王の統治下でエホバを擁護した勇敢な預言者も大勢います。

 現代に適用すると、巡回監督に誤解されたり会衆の長老に不適切な指導をされたりということが言えると思います。
あるいは、親や研究司会者が不適切なことを言うとか、ひどいことをするということもあるでしょう。
そんな時にどうしますか。エホバを悪くいいますか。“民主的に解決”しようとするでしょうか。

 エホバは公正な方ですから、不条理の発生源ではありません。しかし、不条理な問題を一定期間そのままにすることによって、私たちの信仰と忠節審を試されることがあるのです。

祈りにすぐには応えないことによって粘り強さを試される

 エホバは、祈りにすぐには応えないことによって、私たちが捧げる祈願がどれほど強く切実なものかを試されることがあります。
そのことは、聖書の中でこのように述べられています。

 1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください』。
2 そこで彼らに言われた、『祈るときには、こう言いなさい、「父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください」』。
5 そして彼らに言われた、『あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、「友よ、パンを三つ貸してください。
6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから」と言った場合、
7 彼は内から、「面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない」と言うであろう。
8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか』。
´ルカ 11:1〜13、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 エホバはふてぶてしい態度を取り、私たちが必死に祈願する時にしぶしぶ祈りを聞く、という意味ではありません。
そうではなく、エホバは善良な方だから、熱烈に祈願をする時に聖なる力を与えてくださるという事、大切なのは粘り強く純粋な信仰で祈り続けることだというのが、この聖句の教訓です。

とはいえ、祈りの答えが出るまでに時間がかかるという場合だけでなく、私たちのリクエストには応えないということもあります。
パウロの場合がそうでした。

 7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9 ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
´コリント第二 12:7〜10、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 パウロが悩まされていた『肉体に与えられたとげ』が何だったのかはよく分かりませんが、そのとげを無くしてほしいという祈願に対して、エホバは、「とげは無くさないが力を与える」という方法で応えました。
エホバはときに、苦痛の原因は取り去らないけれど耐え抜く力を与えるという形で祈りに応えます。これもある意味で、信仰の試みにはなるでしょう。
しかしエホバは愛のある方ですから、私たちを見捨てることは決してありません。ゆるぎない愛を示し、支え続けてくださるのです。
そして、このような経験を通して私たちの信仰は強まり、それは私たちのためにもなります。

疑い深い人をふるい分ける

 エホバは、疑い深い心を持った人をふるいにかけることがあります。
例えば、聖書には矛盾と思える表現がたくさんありますし、「なぜエホバはこのような行動を取られたのだろうか」という疑問に対して詳細な情報が与えられていないケースもあります。
こういった疑問に直面して、ある人は性急に「神などいない」と決めつけたり、「聖書は間違っている」と言ったりします。
聖書の矛盾と思える箇所については、聖書をよく調査したり背景的な情報を知ることで、矛盾というわけではないのだという事が分かってきますし、聖書を調べても答えが出てこない疑問については、その他の証拠から、エホバの誠実さや公正さを信頼して信仰を示そう、と思うことができます。
将来、聖書時代の人たちが復活してきた時に、今は分からないいろいろな疑問の答えが与えられることでしょう。
(矛盾と思える聖書の記述が矛盾していないと言えるいくつかの実例については、「聖書の矛盾´浅はかな批判論と浅はかな擁護論を越えて」という記事をご覧ください。)

 エホバは聖書を、「突っ込みどころのある本」として仕上げました。
考えてもみてください。創世記1章の創造の記述が非常に詳細で、現代の学者たちをさえ論破するような圧倒的な情報量と専門性の高い記述であったとすれば、だれも聖書に異論を唱えないのではないでしょうか。
そうすると、全人類はエホバの正しさを認めざるを得なくなりますが、その代わり信仰は必要ないという事になります。
そうではなく、エホバは、信仰を持ち、心が純粋で、謙遜な人を引き寄せたいのです。
聖書を「突っ込みどころのある本」として仕上げたことによって、読者の心の純粋さが試されることになりました。
ある人は聖書を信じますが、ある人は聖書を馬鹿にします。
聖書は“人を分ける本”なのです。
私たちが聖書を読んでいる時、エホバは私たちの心を読んでいるのです。

 エホバが、聖書に詳細な情報を含めないことにされたことで読者の信仰が試され、疑い深い人をふるいにかけている、ということについては、「エホバに近づきなさい」という書籍の第18章 「『神の言葉』に示されている知恵」の16〜19節をご覧ください。
聖書の“矛盾”とされる箇所が矛盾しているわけではないと言える理由については、ものみの塔出版物索引の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という中見出し以下に挙げられている各種資料をご確認ください。

「妬みトラップ」´不公平感や嫉妬心を掻き立てられるような状況

 聖書に仕込まれた仕掛けで、私が「妬みトラップ」と呼んでいるものがあります。
不完全な人間の嫉妬心や不公平感に訴えかけるような罠です。
この釣りに引っかかってしまった人は、エホバは不公平だと不満を口にし、神を悪く言って罵るまでになる人もいます。

 聖書には、兄より弟のほうが優遇されたとか、自分より短い時間しか働いていない人が自分と同じ賃金だったとかいう実話や例えがあります。
ある人たちはこれを「不公平だ」と感じ、神を悪く言います。
しかし、忘れてはならないのは、エホバはひどいことは一つもしていない、ということです。
弟がより多く祝福されたからと言って、兄が冷遇されている(兄の基本的な権利が剥奪されている)というわけではありません。
自分より短い時間しか働いていない人が自分と同じ賃金なのは、主人の善良さの表れであって、不当なことをされたわけではありません。(自分に対する賃金不払いがあったとか、約束した学より少なく支払われたというわけではありません。)

 こういったことは現代でもよくあります。
自分より経験の浅い人に大きな責任が委ねられたり、自分より能力や知識が少ない人のほうがエホバから用いられているように感じたりすることがあるからです。
ある人は、長年うつ病に苦しんでいますが、自分よりも後に同じ病気になった友人が、すぐに回復して今ではすっかり元気にしているという光景を目にします。
エホバが不当なことをしたわけではないと分かってはいますが、心がざわついてしまう時もあるでしょう。

 私たちは日々このような罠に直面し、「妬んだら負け」という厳しいレースを走っています。
妬みは不完全な人間にとってつきものです。
それは、新世界訳聖書のヤコブ 4:5にある通りです。(この聖句は訳本によって違った意味に訳されています。新世界訳をご確認ください。)
私たちは、妬みという感情を完全に消し去ることはできないとしても、その感情に流されたり、飲み込まれたり、その感情によって理性を失ったり操られるままになって負けてしまわないよう、懸命に努力する必要があります。
そして、不公平だと感じてしまうという事と実際に不公平かどうかは別であり、どんな状況に立たされてもエホバを悪く言ったりはしないと決意しています。

 不公平感を募らせてエホバと組織に不満を持ち、ついに神を罵るようにまでなってしまった元信者たちは、見事にこの罠に引っかかってしまっているという典型的な例です。
不満の一つ一つには『もっともな理由』もあるのかもしれませんが、やはり何があったとしても、最終的に神を捨てるか捨てないかは当人が選ぶことです。
なかなか厳しい試練ではありますが、こういったことを通しても、私たちの信仰の質は試されているのです。

「群集心理」について言えること´首都圏国電暴動と上尾事件について国鉄幹部が語った総括

 ここまでで、エホバは最初に全ての情報を与えて安心感を与えることはされないこと、退屈さや不条理に耐えなければならないという試練、不公平感という罠などについて書いてきました。
ここで一つ、ウィキペディアから引用しておきたいと思います。
群集心理について述べた、「首都圏国電暴動」の項の記述です。
首都圏国電暴動とは、国鉄のストライキに怒った乗客が破壊活動などの暴動に至ったもので、半世紀前(1973年4月)の出来事です。
その1か月前には、埼玉県上尾市にある上尾駅で、やはり国鉄のストに怒った乗客が破壊行為を行った上尾事件がありました。
この二つの事件を総括して、国鉄幹部はこのように書いています。
以下、ウィキペディアからの引用。

 1976年当時首都圏本部工事管理室長(前東京西鉄道管理局電気部長)であった佐藤金司は、両事件を情報面から次のような総括を行っている。なお、佐藤は首都圏国電暴動の際には騒動現場に遭遇したため、直ちに西管理局に戻り、情報収集、復旧、事後の対応に当たり、暴動後の検討会に出席した経験を持つが、私見として次の事項を列挙した。
第一に、列車減速のようなサボタージュ中は乗客のイライラ状態が強く、不祥事の発生する発火点が極めて低い。
第二に、パニック状態まで混乱を発展させないためには、事件の起きた最初の二、三〇分の処置の適否が極めて重要である。
第三に、混雑した車中や駅などの群衆の中では、異常時に最も悪い影響を与えるのは、"情報の飢餓"である。
第四に、にもかかわらず、情報収集伝達手段が極めて貧弱であり、従って適切な判断と情報の提供をなし得なかった。
第五に、肝心の車中や駅では的確な情報が分らず、乗客に対して有効な案内や説得をなし得なかった。
佐藤金司『首都圏輸送の日々に思う...』『鉄道界』1976年4月

 (列車の遅延など)期待通りにいかないことがあると人はイライラしますし、そのような中ですぐに対応がなされず待たされると余計にイライラしますし、ネットや電光掲示板での運行情報の提供がなかった当時は「今何がどうなっているか分からない状態」でますます苛立ちますし、そんな中で、駅員という責任ある立場の人が情報提供などきちんと対応してくれなければなおのことイライラします。(当時は駅員も、運行状況をリアルタイムに把握することはできなかった)

 昨秋には韓国で痛ましい雑踏事故がありましたが、こういった事故を防ぐためには、人の流入を制限するといった対応に加えて、群集に不公平感を感じさせないことや、適時必要な情報を提供する事が重要であると言われています。
不公平感を感じると人はイライラして、我先にどこかへ行こうとしたり他人を押したりしがちです。
また、情報が与えられないとフラストレーションが貯まり、こういったイライラはトラブルの元になります。

 これらの情報を受けて、上で述べた「エホバの教え方」を振り返ってみると、エホバがなさっていることは、群集心理のコントロールという意味では「一番やってはいけないこと」をいくつもやっているように思えます。
部分的な情報しか与えなかったり、すぐには答えを与えなかったり、期待とは違う答を与えたり、責任ある立場の人の不適切な言行という不条理をすぐには正されなかったり、不公平感を感じさせかねない状況に置いたりしているからです。
まさにエホバがなさっていることは、「群集心理のコントロールという意味では最悪の方法」とされているものです。
エジプト脱出の際、紅海を前にして追い詰められたイスラエル人はパニックに陥りモーセを非難しましたが、人間的な観点からは無理もないことです。
エホバはわざわざイスラエル人に遠回りを刺せて、逃げ場のないところまで連れていき、エジプト軍が攻めてきた時に海を分け、イスラエル人に対してもエジプト人に対しても、ご自分の力を徹底的な形で示されました。(出エジプト記 13〜14章)
これがエホバの方法です。エホバはそういうことをなさる神なのです。
私たちの感情以上に重要なのは、エホバの主権です。

エホバは意地悪な方なのか

 ここまで考えてきて、エホバは情報を先に与えて安心感を与えることはされないとか、不条理な状況に置かれるままにされることがあるということからすると、エホバは意地悪な方なのだろうか、と思ってしまうかもしれません。
私たちの感情は軽視されているのでしょうか。ひたすら柔順と謙遜差が問われ、クリスチャン人格を鍛えるために過酷なレースを強いられているだけなのでしょうか。

 そういうことでもありません。エホバが答を与えてくださる時を待っている間も、エホバは日々私たちを支えてくださいます。
祈り求めれば寛大に与えてくださる聖なる力は、喜びや心の穏やかさをもたらしてくれるものだからです。
不満を言いがちなのも妬みがちなのも不完全な人間の傾向ではありますが、その不完全さに立ち向かえるのが聖なる力による助けです。
私たちには、「生まれ持った自然の傾向に抗う事」が求められており、それを可能にするのが聖なる力です。
ですから、「答が与えられない限り満足しない」とか「問題が解決しない限り気分が晴れない」と考えるのではなく、日ごとに与えられるエホバからの支えを受け入れて、日々エホバと一緒に人生の旅をするプロセスを楽しむのです。
目的地に着くことやそこに滞在する事だけが旅ではなく、ワクワクしながら計画を立て、準備をし、目的地まで行く途中の車窓や出会う人々を楽しむのです。

永遠の祝福を思い見よう、今ある苦しみは一時的なもの

 今の時代、涙をもってエホバに仕えることは避けられません。
それはエホバがひどい方だからではなく、今が邪悪な時代であり、私たち自身が不完全だからです。
しかし、将来エホバは全ての苦しみの原因を取り去ってくださり、これまでに受けた心の傷を全て回復させてくださいます。
今ある苦しみは一時的なものです。
いまでさえも、ただ我慢するだけというわけではなく、たくさんの祝福や支えを与えてくださっていますし、将来はそれをさらに上回る喜びを与えてくださいます。
エホバが不条理の存在を許しておられるのは一時的なことであり、将来はありとあらゆる痛みを無くし、不公正を正してくださること、そのために贖いとしてイエスを与えてくださったことを、いつも思いに留め、感謝のうちに、希望を見据え、忍耐を示しつつ、エホバと共に歩む日々を楽しみましょう。
それは難しすぎることではありません。エホバは日々、喜びや慰めを与えてくださるからです。

補足: エホバの教え方を真似しても良いのか

 補足です。最後に、「エホバの教え方を真似しても良いのか」について考えましょう。

 エホバはときに、不条理をすぐには正されなかったり、情報を与えなかったり、妬みや不公平感を感じてしまうような状況に置くことで私たちの信仰を試されますが、私たちはこの教え方を真似すべきでしょうか。
真似すべきではないというのが答えです。
親が子供を、司会者が研究生を教える時、あるいは長老が会衆の成員に対して、同じ方法を採ってもいいというわけではありません。
長老たちは、何かを決定した際には、「とにかく決めた事なのだから従いなさい」という態度を取るべきではなく、可能な場合は常に決定の理由を説明して一般信者の尊厳を重んじなければならない、と言われています。(「ものみの塔」2008年10月15日号 「敬う点で率先していますか」という記事の8節を参照。)
また、長老たちは秘密主義者のようになるべきではないとも言われています。(「ものみの塔」1991年9月1日号の「家族と会衆の中で意思を伝達する」という記事の19節参照。)
さらに、2022年の「平和をつくる」地区大会で学んだように、そのつもりがないとしても、だれかに嫉妬心を抱かせかねない言動は避けるべきです。
「自慢話のつもりで言ったわけではありません。勝手に妬んだほうが悪いんじゃないですか」などという態度を取るのは間違っており、愛のないことです。(こちらの動画の13分07秒ごろからです。視覚障碍者向けの副音声付き動画はこちらです。)
また、冒頭で挙げた「血を飲み、肉を食べる」といったイエスの話し方も安易に真似すべきものでもありません。
私たちが聖書伝道で聖書の教えを語る際は、誤解をまねきかねない表現を極力避け、例えの意味などが正確に伝わるように努力し、相手に合わせて話し方を工夫すべきです。(ピリピ 4:5、コロサイ 4:6)

 これまでに述べてきたようなエホバとイエスの教え方は、「お二方だから許される」というものです。
エホバは私たちの神ですし、イエスは私たちの主です。
だからこそ、私たちの心をご覧になり、ときに信仰を試されるのです。
しかし、親は子に対して、司会者は研究生に対して、長老は一般信者たちに対してそのような立場にはありません。
信仰の仲間を故意に不快にさせて、意図的に試練を与えようとするのは間違っており、愛のないことです。
親は子供にとって崇拝の対象ではありませんし、研究生は司会者の弟子ではありませんし、一般信者は長老に献身したのではありません。
私たちは皆兄弟です。(マタイ 23:8)

2023年4月27日追記: この、「エホバ神とイエス・キリストに倣うべき点と倣うべきでない点がある」ということについて、この見出しの内容を大幅に加筆した記事を書きました。
「神になろうとすることの危険」という記事の中で、立場や力を誤用することの危険や、エホバとイエスに倣うべき点と倣うべきでない点を見極めるポイントなどについて書きました

おすすめ動画

以前にも紹介しましたが、以下二つの動画をおすすめします。この記事の内容と重なる部分が多く、「エホバはときに不条理を用いて私たちのクリスチャン人格を鍛えられる」という点を扱っています。

「ギレアデ第140期卒業式:パート1 導入部分と話」という動画の中の「エホバと旅をする」という話(51分10秒ごろから)

「エドワード・アルジャン:重要な諭し」


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