エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

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 エホバの証人に関する話題を、一人の一般信者の素朴な視点から綴り、感想や観察を述べていきます。

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聖書の矛盾´浅はかな批判論と浅はかな擁護論を越えて

 聖書は矛盾していると考える人は大勢います。また、キリスト教の信条は非合理なものだと思っている人も多くいますし、実際にそういうところがあります。
過去150年、エホバの証人は入念な聖書の研究を通して、聖書の矛盾とされる箇所について、かなりの知識を得てきました。
矛盾とされている聖書の箇所を調べていくと、実際には矛盾ではなく「それぞれの聖書筆者の見方の相違」である、ということもあれば、翻訳された聖書に誤訳がある、ということもあります。
「聖書の矛盾」とされる箇所についての具体的な解説は後ほど述べることにして、その前に、「聖書の書き方はなぜこうなのか」という点について考えたいと思います。
というのも、聖書を読んでいると、読者に対してわざわざ「聖書は矛盾した本なんですよ」という印象を与えるような書き方をしているからです。
これはなぜなのでしょうか。
以下、聖書の書き方の特徴を説明したうえで、聖書の矛盾とされる箇所の具体例を取り上げ、「正しい聖書の解読法」について解説していきます。

 なお、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)の公式ウェブサイト jw.orgにある「聖書には矛盾がありますか」という記事では、以下に超長文で説明することが、ごく簡潔にまとめられています。私が書いたこの記事は、「簡潔な説明では物足りない」、「もっと詳細な解説を読みたい」という方のためのものです。

「聖書の矛盾箇所」は傲慢な読者を退けるために著者エホバが仕掛けた罠

 旧約聖書にも新約聖書にも、矛盾とされる箇所は多数あります。
創世記の天地創造の記述のように、同じ筆者(モーセ)が書いた聖書の言葉の中に矛盾点があるように思える箇所もあれば、新約聖書の四福音書のように、異なる筆者が書いた並行記述の中に矛盾点と思える記述がある、ということもあります。
また、新約聖書が旧約聖書を引用している箇所で、矛盾が生じているように思える箇所もあります。(具体例については後述します。)
こう考えると、聖書の著者であるエホバ神※は、わざと、聖書を矛盾のある本だと読者に印象付けるような書き方をしているとしか思えません。
(※ 聖書の著者は神エホバです。エホバが聖書筆者(ダニエルやイザヤやアサフやモルデカイなど)に聖霊(神の聖なる力)を与えて聖書を書かせました。聖書筆者はいわば秘書で、聖書を書いたのは人間ですがそこにはエホバ神のお考えが書かれていると言えます。(テモテ第二 3:16))
これは、エホバが聖書を読む読者たちに仕掛けた罠です。

 パウロは次のように書いています。

 19 すなわち、聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
´コリント第一 1:19-21、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 エホバは、謙遜な人や世間から爪弾きにされている人、見下されている人、心が素直で柔和な人、虐げを受けてきて慰めを必要としている人に憐れみをかけてくださる愛の神です。
また、エホバは傲慢な人や神より自分のほうが賢いと思っているような人を嫌われます。
それで、エホバは聖書を書くに当たって、傲慢な知識人たちを躓かせ、心の遜った人だけが正しい意味に到達できるような仕掛けを、聖書のあちこちに仕込むことにされました。

 エホバがうぬぼれた人を嫌い、慎み深い人を愛されることは、山上の垂訓(山上の説教)でイエス・キリストが語られた言葉や使徒ペテロの書簡からも理解できます。

 3 『心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。』
´マタイによる福音書 5:3-8、新共同訳聖書、日本聖書協会、引用は一般財団法人日本聖書協会公式ウェブサイト 聖書本文検索から。

 皆互いに謙遜を身に着けなさい。
『神は、高ぶる者を退け
へりくだる者に恵みをお与えになる」からです。
´ペトロの手紙一 5:5後半、聖書協会共同訳聖書、日本聖書協会、引用は一般財団法人日本聖書協会公式ウェブサイト 聖書本文検索から。

 このような仕掛けはほかにもあります。
聖書には、「矛盾しているように見せる」という以外にも、読者を引っかける様々な罠があるのです。
先日公開した記事にその点を書きましたので、以下引用します。

エホバは、疑い深い心を持った人をふるいにかけることがあります。
例えば、聖書には矛盾と思える表現がたくさんありますし、『なぜエホバはこのような行動を取られたのだろうか』という疑問に対して詳細な情報が与えられていないケースもあります。
こういった疑問に直面して、ある人は性急に『神などいない』と決めつけたり、『聖書は間違っている』と言ったりします。
聖書の矛盾と思える箇所については、聖書をよく調査したり背景的な情報を知ることで、矛盾というわけではないのだという事が分かってきますし、聖書を調べても答えが出てこない疑問については、その他の証拠から、エホバの誠実さや公正さを信頼して信仰を示そう、と思うことができます。
将来、聖書時代の人たちが復活してきた時に、今は分からないいろいろな疑問の答えが与えられることでしょう。

 エホバは聖書を、『突っ込みどころのある本』として仕上げました。
考えてもみてください。創世記1章の創造の記述が非常に詳細で、現代の学者たちをさえ論破するような圧倒的な情報量と専門性の高い記述であったとすれば、だれも聖書に異論を唱えないのではないでしょうか。
そうすると、全人類はエホバの正しさを認めざるを得なくなりますが、その代わり信仰は必要ないという事になります。
そうではなく、エホバは、信仰を持ち、心が純粋で、謙遜な人を引き寄せたいのです。
聖書を『突っ込みどころのある本』として仕上げたことによって、読者の心の純粋さが試されることになりました。
ある人は聖書を信じますが、ある人は聖書を馬鹿にします。
聖書は“人を分ける本”なのです。
私たちが聖書を読んでいる時、エホバは私たちの心を読んでいるのです。

 エホバが、聖書に詳細な情報を含めないことにされたことで読者の信仰が試され、疑い深い人をふるいにかけている、ということについては、『エホバに近づきなさい』という書籍の第18章 『「神の言葉」に示されている知恵』の16-19節をご覧ください。

´「エホバとイエスの教え方に“慣れる”ことの大切さ」

 エホバは聖書を書くときに、事の詳細をあえて述べないことによって、私たちの信仰と心の状態を試しておられるのです。

 この、「エホバとイエスの教え方に“慣れる”ことの大切さ」という記事では、更にもう一つの「聖書の罠」についても述べています。
聖書の矛盾点という話からは脱線しますが、ご紹介いたします。

聖書に仕込まれた仕掛けで、私が『妬みトラップ』と呼んでいるものがあります。
不完全な人間の嫉妬心や不公平感に訴えかけるような罠です。
この釣りに引っかかってしまった人は、エホバは不公平だと不満を口にし、神を悪く言って罵るまでになる人もいます。

 聖書には、兄より弟のほうが優遇されたとか、自分より短い時間しか働いていない人が自分と同じ賃金だったとかいう実話や例えがあります。
ある人たちはこれを『不公平だ』と感じ、神を悪く言います。
しかし、忘れてはならないのは、エホバはひどいことは一つもしていない、ということです。
弟がより多く祝福されたからと言って、兄が冷遇されている(兄の基本的な権利が剥奪されている)というわけではありません。
自分より短い時間しか働いていない人が自分と同じ賃金なのは、主人の善良さの表れであって、不当なことをされたわけではありません。(自分に対する賃金不払いがあったとか、約束した学より少なく支払われたというわけではありません。)

 こういったことは現代でもよくあります。
自分より経験の浅い人に大きな責任が委ねられたり、自分より能力や知識が少ない人のほうがエホバから用いられているように感じたりすることがあるからです。
ある人は、長年うつ病に苦しんでいますが、自分よりも後に同じ病気になった友人が、すぐに回復して今ではすっかり元気にしているという光景を目にします。
エホバが不当なことをしたわけではないと分かってはいますが、心がざわついてしまう時もあるでしょう。

 私たちは日々このような罠に直面し、『妬んだら負け』という厳しいレースを走っています。
妬みは不完全な人間にとってつきものです。
それは、新世界訳聖書のヤコブ 4:5にある通りです。(この聖句は訳本によって違った意味に訳されています。新世界訳をご確認ください。)
私たちは、妬みという感情を完全に消し去ることはできないとしても、その感情に流されたり、飲み込まれたり、その感情によって理性を失ったり操られるままになって負けてしまわないよう、懸命に努力する必要があります。
そして、不公平だと感じてしまうという事と実際に不公平かどうかは別であり、どんな状況に立たされてもエホバを悪く言ったりはしないと決意しています。

´「エホバとイエスの教え方に“慣れる”ことの大切さ」

 このように、聖書には人の嫉妬心を利用した罠まであり、神の主権を受け入れる人と受け入れられない人とがふるい分けられるのです。
聖書自体が述べているように、傲慢で思慮の浅い人は中途半端な知識で「神などいない」と言うのです。

 悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて『神はない』という。´詩篇 10:4、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 聖書そのものに傲慢な読者をそのような結論に誘導する仕組みがあるというわけです。
こうして、謙遜な読者は神を理解する正しい道に導かれ、傲慢な読者は予め準備された間違った結論に誤導され、エホバは傲慢な人が決して真理に到達できないようにしておられるのです。

浅はかな批判論と浅はかな擁護論´「聖書の矛盾」は安直な信者を誤導する罠でもある

 聖書の矛盾点に話を戻しましょう。
矛盾とされる聖書の記述は、信仰を持たない人を躓かせるためだけのものではなく、「何でも信じ込む安直な信者のための罠」でもあります。
聖書に反対する人たちが「聖書は矛盾している」と主張すると、反対者たちの指摘の内容を精査することもなく、脊髄反射的に「聖書は矛盾していない、聖書はとにかく正しい神の言葉なんだ」と言う人たちがいます。
こういう人たちは、「聖書の矛盾点」を指摘されると話を繕い、聖書を注意深く調べることもせずに想像であれこれ語ります。
本当の意味で、神と聖書を擁護しているとは言えず、浅はかな擁護論と言えます。
これは真の信仰とは言えず、エホバはこのような理性的でない“信仰”を喜ばれません。
聖書の評判は、このような人たちによっても傷つけられてきたのです。
(聖書は、思考力を用いて証拠を確かめて神を信じることを奨励しています。この点について詳しくは、当ブログの記事「『疑問を抱くのは悪いこと』´元信者にありがちな心理状態、考え方、勘違い」、および「奇跡(超常現象)はそれが真の宗教だという証拠ではない」という二つの記事をご覧ください。)

 こういった人たちが教理を作ってきた結果、今のキリスト教の多くの教派では、非合理的な教えがまかり通ることになりました。
例えば、宮原崇さんのサイトの「ルカ 23:43」の項には、キリスト教は一般的には非合理主義であり、話のつじつまを気にしない、もしくは気にしてはならないというところがありますと書かれています。

 「聖書は矛盾している」と言われた時に、「どこが矛盾しているのか」、「その聖句についてどのような解釈があり得るのか」、「そもそも翻訳に間違いはないのか」といったことを考慮せずに、「とにかく聖書は正しいのだ」と主張する安直な信者たちは、地球は7日でできたというような特殊創造論に走ったりします。
ファンダメンタリスト(福音主義教会の信者)たちの「聖書は正しいのだ」という信念は立派なものですが、聖書の中には文字通りに解釈すべき表現とそうでない表現とがあります。

 また、聖書を盲信する人だけでなく、「中途半端に信じる信者」もいます。
こういった人たちは、聖書の言葉の整合性をあまり考えず、聖書の中から気に入った部分だけを自分の信条に取り入れます。
聖書の著者エホバはこのような「適当につまみ食いする中途半端な信仰」も喜ばれません。
聖書はその全体が神の言葉なのですから(テモテ第二 3:16)、気に入ったところだけを部分的に受け入れるというのは、真の信仰とは言えません。

 聖書には、1. 神を侮る傲慢な人、2. 何でも信じ込む人、3. 中途半端に信じる人それぞれに対する罠があり、批判的な人は聖書は間違っていると決めつけ、何でも信じ込む人は非合理な(場合によっては過激な)教えに走り、中途半端に信じる人は自分はいい気分になっていても神の裁きの日に直面すると救いを得損ないます。
いずれの人たちも、聖書の正しい意味に到達できないのです。

(エホバの証人は権威として聖書の言葉に忠実に従おうとします。その点については、「排斥処分は残酷である、という報道を受けて´排斥処分に関する聖書的な解説(一部私見を含みます)」という記事の冒頭に書いています。)

並行記述を比較しながら読むのが福音書の正しい解読法

 イエス・キリストが地上におられた間の活動について書かれたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、重複する内容を扱っており、並行記述が多数あります。
その中には、矛盾と指摘されるものもいろいろとあるのですが、エホバの願いは、それら4つの福音書の記述を比較して読み、神の子イエスがどのような方だったかを、読者がより立体的にイメージできるようにすることです。

 イエスは地上で伝道活動を行われた3年半の間に、実に多くのことを行われました。
たくさんの奇跡を行い、弟子たちにもたくさんのことを語ったはずです。
それは聖書には書ききれないほどの者です。
イエスと一緒に行動していた使徒ヨハネが、福音書の最後の部分でこのように書いています。

 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。´ヨハネによる福音書 21:25、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 ただ、もしそのように、イエスの行ったことや語ったことが書ききれないくらいあるのであれば、福音書筆者たちは、なぜわざわざ内容が重複するようなことを書いたのでしょうか。
西暦41年にマタイがマタイの福音書を完成させた時に、その次に福音書を書いたルカは、「マタイが書いたことと内容がかぶらないようにマタイが書いていないことだけを書こう」とは考えなかったのでしょうか。
三番目に福音書を書いたマルコに至っては、その大部分がマタイ福音書やルカ福音書の内容と重複しています。
二人が書いていないことを書こう、と気を利かせることはしなかったのでしょうか。

 こういったことを考えると、エホバはあえて4人の福音書筆者たちに重複する内容を書かせて、読者がそれら四福音書の並行記述を突き合わせて読み比べながらイエスをイメージしやすくしたのだということが言えるはずです。
これが聖書の読み方です。
そして、同様のことは列王紀と歴代志など、ほかの並行記述についても言えるはずです。
聖書に並行記述がある場合、それは同じ内容の繰り返しではありません。
あえて同じことを別々の筆者に書かせた必然性があるはずです。
同一の内容の繰り返しであれば、同じ出来事に別々の筆者が言及する必然性はないはずで、並行記述はその相違点に何かしらの意味が込められているはずです。
例えば、イエスが亡くなる日にローマの兵士たちから着せられた衣服が赤かったとするマタイと(マタイ 27:28)、紫色だったとするマルコとヨハネの記述(マルコ 15:17、ヨハネ 19:2)を比較すると、「紫色だったけど、マタイは赤い色合いを強く感じたのだろう」と解釈できます。紫は、赤と青を含むあらゆる色を指す意味の広い言葉です。(「聖書に対する洞察」という聖書百科事典の第1巻265ページをご覧ください。エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行。)
福音書が書かれた順番に着目すると、マルコは「マタイは赤い色合いを強く感じ取ったようだけど、真っ赤だったわけじゃないんだよ」ということを言おうとしていたのかもしれません。

 イエスが奇跡を行われた場所に関する“矛盾”の話も有名です。
イエスは目が見えない人を癒されましたが、奇跡が行われた場所について、マタイとマルコはイエスと弟子たちが「エリコを出ていく時」に行われたと書いているのに対し、ルカは「エリコに近づいていく時」に奇跡を起こされたとあります。(マタイ 20:29、マルコ 10:46、ルカ 18:35)
当時、エリコと呼ばれる場所は二つあり、ユダヤ人のエリコ(旧市)と、そこから1マイルほど離れたところにあるローマ人が再建したエリコがありました。
したがって、イエスが盲人を癒された場所は、古いユダヤ人のエリコと新しいローマ人のエリコの間のどこかだったのでしょう。(「ものみの塔」2008年5月1日号の「ご存じでしたか」という記事をご覧ください。)

 このように考えると、並行記述というのは相違があるから意味があるものなんだという事が分かります。
4つの福音書の並行記述に相違が全くなく、同一内容の繰り返しなのであれば、4人に書かせる意味はなく、福音書は1冊でいいはずです。
しかし、エホバは4人の筆者に福音書を書かせ、なおかつそれらの内容は「重複しているんだけれどいくらかの相違がある」というものにされました。
それらの相違に着目すると、いろいろな情報が込められているという事が分かります。

 とはいえ、私がここで言いたいのは、「ほらね、聖書には矛盾がないでしょ」という単純な話ではありません。
確かに矛盾はないのですが、このような書き方は「親切とも言えない」とも思ってしまいます。
イエスが兵士に着せられた服について、「赤い色合いを多く含んだ紫色」とは書けなかったのでしょうか。
イエスが盲目の男性を癒された場所については、「古いエリコを出て新しいエリコに向かっていく途中のどこそこ」という書き方はできなかったのでしょうか。
このように考えてみると、「聖書は矛盾していないけれど、矛盾しているかのように思わせる書き方をしている」と言えると思います。
それこそが、私が上で述べた「罠」です。

 聖書には(特に福音書には)、思慮の浅い読者を誤導するためにあえて説明を極限まで省いた記述がたくさんあります。
聖書を注意深く調べる、神への信仰と理性的な探求心の両方を持った人だけが、正しい理解に到達するための仕掛け(それ以外の読者をふるいにかけるための仕掛け)なのです。

 ここまでで、聖書が矛盾しているように思える理由、むしろ聖書の著者エホバがあえて矛盾しているかのように見せている理由について考えてきました。
では、これから具体例を見ていきましょう。
よく矛盾であると指摘される聖句と、それらの指摘に対してどんな考え方ができるかについて、いくつかの例を考えたいと思います。
(なお、このブログではエホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行の出版物からの引用は行わない方針です。参照資料のリンクをクリック(タップ)すると別ウィンドウでjw.orgやものみの塔オンラインライブラリーの該当する記事を見ることができますので、必要に応じて、資料を参照しながら読み進めていただければと思います。)

(※ 以下、聖書の矛盾箇所とされる具体例については、コンテンツを折りたたんでいます。クリック(タップ)して気になったところからご覧ください。)

旧約聖書の矛盾点

 それではまず、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の矛盾箇所を見てみましょう。

創世記の矛盾´天地創造

 聖書に批判的な人や、いわゆる高等批評家たちによって聖書の矛盾箇所の筆頭として挙げられるのが、創世記の冒頭にある、「天地創造の矛盾」です。


 天地創造の矛盾1: 太陽や星はいつできたのか

 3 神は『光あれ』と言われた。すると光があった。´創世記 1:3、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 14 神はまた言われた、『天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
15 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ』。そのようになった。
16 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
´創世記 1:14-16、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 神は創造の1日目にも太陽や星を造り、4日目にも造られたのでしょうか。これは矛盾ではないか、という指摘です。
ここで考えないといけないのは、創世記の筆者は、天地創造を、地上にいる人間の視点から書いている、ということです。
宇宙空間から地球を俯瞰する視点で書いているわけではないのです。

 つまり、太陽の光は創造の1日目に地球を照らしていたが、創造の4日目に地表に十分届くようになった、ということです。
ちなみに、太陽や星が創造されたのは、創世記1章3節が述べる創造の1日目ではなく、創世記1章1節で天地が創造されたとある「はじめ」の時(創造の1日目よりも前)です。聖書の中で「天」という語は、星を刺して使われることがあります。(jw.org の、「神はいつ宇宙の創造を始めましたか」という記事の「太陽,月,星はいつ造られましたか」という見出し以下参照。)

 創世記1章3節と14節の矛盾には、翻訳の問題というのも絡んできます。
3節に出てくる「光」はヘブライ語の「オール」であるのに対し、14節に出てくる「光」はヘブライ語の「マーオール」であり、同じ語が繰り返し使われているわけではありません。
新世界訳聖書は3節の「オール」に「光」という訳語をあて、14節の「マーオール」に「光体」という訳語をあてて、両者を訳し分けています。
(『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』という本の「研究8 ―『新世界訳』の利点」の10節参照。エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行。)


 天地創造の矛盾2: 動物と人間、どちらが先に創造されたのか

 次に挙げられる聖書の矛盾箇所は、創世記1章と2章の食い違いです。

 24 神はまた言われた、『地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ』。そのようになった。
25 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
26 神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。
´創世記 1:24-26、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
´創世記 2:7,19-20、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 創世記2章の記述は、人が創造された後に動物が創造されたと言っているように思えます。
これは、先に動物が造られたと語る1章の記述と矛盾するのではないか、という指摘です。

 しかし、これを矛盾であると結論付ける必要はありません。
創世記1章は純粋に天地創造の順序を述べているのに対し、2章はアダムの家族の歴史に着目した書き方をしているということです。
まずアダムが一人でいて、エホバがアダムに「善悪の知識の木の実を食べてはならない」という禁止令を与え、アダムに動物の名前を付けさせる仕事をさせ、エバを創造されたという流れを語っています。
3章以降の、アダムとエバの反逆や二人の子供たちや子孫についてなどを述べる文脈の最初に、アダムが一人でいた時期やエバが創造された経緯について言及する必要があり、その中で動物についても言及する必要があった、ということです。
エホバがアダムに動物の名前を付けさせたことを語るために動物の創造の話を持ち出しているわけで、この時に創造が行われたと言っているのではありません。
つまり、創世記1章と2章とでは叙述の構成が違うということです。時系列で書いている1章と、出来事を重要な要点に沿って書いている2章以降は書き方が違っており、2章では話の流れから動物の創造にもう一度言及する必要性があったというわけです。創世記は基本的に、人の歴史を扱った2章から50章までの物語で、1章はその序文と考えることもできます。
「聖書 神の言葉,それとも人間の言葉?」という本の第7章、「聖書には矛盾がありますか」の17-18節参照。エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行。)


モーセの律法の矛盾点

 出エジプト記以降に書かれているモーセの律法にも、矛盾と指摘される箇所があります。
これを見てみましょう。


 モーセの十戒の矛盾´親の罪で子供は処罰される?されない?

 まずは十戒です。
出エジプト記を見てみると、モーセはシナイ山でエホバ神から律法を与えられます。
律法はモーセ五書の重要な部分を占めているために、モーセ五書全体を指して「トーラー」(教え、律法、戒めの意)と呼ばれることもあるほどです。*1
その律法の中でも特に代表的なのが十戒です。
昔、「十戒」という映画*2があり、日本でも日本語吹き替え版が放送されていたので、聖書を読んだことがなくてもなじみ深い人は多いと思います。
十戒は、偶像崇拝の禁止などエホバが人間にエホバ神への純粋な崇拝を要求すると共に、殺人や不倫の禁止といった人が従うべき基本的な道徳律を示しています。
西暦前16世紀に与えられた十戒は、その後の長い期間、ユダヤ人たちに大きな影響を及ぼすことになります。
今でも、ユダヤ教徒やキリスト教の一部の教派は、十戒の順守を解いています。
その十戒について、聖書中に矛盾があるというのです。
これをちょっと見てみましょう。

 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、´出エジプト記 20:5、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 他方、この時から900年ほど後に書かれたエゼキエル書にはこうあります。

 罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。´エゼキエル書 18:20、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 出エジプト記の聖句は、親の罪で子供が罰を受けると言っているように見え、エゼキエル書の聖句は逆のことを言っているように思えます。
これは矛盾なのでしょうか。
これらの聖書の言葉をどう解釈すべきでしょうか。

 エゼキエル書の聖句は罪に対する罰のことを言っていて、出エジプト記の聖句は親の罪が子孫にもたらす影響について言っている、ということです。
これは今の日本に置き換えて考えることもできます。
親が犯罪を犯したことで、子供が刑事罰を受けるようなことはありません。その人が犯した犯罪への処罰は、当人自身が負います。
しかし、親が犯罪を犯した場合、子供や孫が少なからず影響を受けるという事はあるでしょう。商売をやっていたら、悪い噂が立ってお客さんが減ってしまったとか、親の犯罪で子供が借金を抱えてしまうということもあり得ます。
このように、エゼキエル書の聖句は個人の責任に着目しており、出エジプト記の聖句は一人の人が犯した罪の影響について着目して語っているのです。
実際、サムエル記や列王紀や歴代志などのイスラエルの歴史を見てみると、そのとおりであったことが分かります。ヤラベアム(ヤロブアム1世)などの幾人かの人の偶像崇拝の罪が、子々孫々、後代の人に至るまで、大きな影響を与えてしまったのです。
(「ものみの塔」2010年3月15日号の「読者からの質問」参照。
また、宮原崇さんのサイトの「出エジプト20:5」の項も合わせてご覧ください。)


 レビ記とネヘミヤ記の矛盾´脂肪を食べてはいけないはずなのに

 モーセ五書からもう少し例を見ていきましょう。
モーセの律法にはこのような禁止令があります。

 あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが、すべてその住む所で、代々守るべき永久の定めである´レビ記 3:17、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 動物の脂肪を食べることは神によって禁じられていました。
しかし、ネヘミヤは大勢の人々を前にした集会の時にこのように言っています。

 そして彼らに言った、『あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です』。´ネヘミヤ記 8:10、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 ネヘミヤが言った、「肥えたもの」とは何でしょうか。これは「脂肪を食べてはならない」というモーセの律法に反するのではないでしょうか。

 これを聖書の矛盾点だと考える人もいますが、そのように解釈する必要はありません。
また、ネヘミヤが律法違反をそそのかしたなどと考える必要もありません。
古代イスラエル人たちは、動物の脂肪を食べることは禁じられていましたが、オリーブ油などの植物油は使いました。
穀物で作った菓子には、そのような植物油が使われました。
レビ記2章7節にはこのようにあります。

 あなたの供え物が、もし深鍋で煮た素祭であるならば、麦粉に油を混ぜて作らなければならない。´レビ記 2:7、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 聖書時代の人々は、動物の脂肪を食べることは禁じられていましたが、このように植物油は一般に使われていました。
クリスチャンにはこの律法を守る義務はありませんが、動物性脂肪を控えてオリーブオイルを調理に使うというのは、なんだか健康に良さそうですね。(オリーブオイルには一価不飽和脂肪酸であるオレイン酸が多く含まれ、悪玉コレステロールを減らす効果があると言われています。これもまた、律法に表れているエホバの知恵と言えるでしょう。)
(「ものみの塔」2008年12月15日号の「読者からの質問」をご覧ください。)


系図の矛盾

 聖書には系図が出てきます。それらの記述にも矛盾と指摘されるものがいろいろとあります。


 サムエル記と歴代志の矛盾: エッサイの子供は7人か8人か

 ダビデ王の兄弟は何人いたのでしょうか。
この点でも、聖書の記述は矛盾しているように見えます。

 10 エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、『主が選ばれたのはこの人たちではない』。
11 サムエルはエッサイに言った、『あなたのむすこたちは皆ここにいますか』。彼は言った、『まだ末の子が残っていますが羊を飼っています』。サムエルはエッサイに言った、『人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません』。
´サムエル記上 16:10-11、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 13 エッサイは長子エリアブ、次にアビナダブ、第三にシメア、
14 第四にネタンエル、第五にラダイ、
15 第六にオゼム、第七にダビデを生んだ。
´歴代志上 2:13-15、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 サムエル記によるとエッサイの子供はダビデを含めて8人いたとなっていますが、600年後にエズラが歴代志を編纂した時には子供を7人と書いています。
これも矛盾と指摘されるのですが、写字生でもあったエズラはサムエル記の記述を読むことができたはずで、これもまた、うっかりミスによる書き間違いなどではなく、意図的にサムエル記と違うことを書いて余分の情報を含めたという事です。

 推測になりますが、おそらくエッサイの息子の一人は子供を持たずに死んだのでしょう。
そうすると、系図には一切影響を与えないので、後代にイスラエル人の歴史を整理する時にエズラはその情報を省いたという事です。
(「ものみの塔」2005年10月1日号の「歴代誌第一の目立った点」という記事の「聖句についての質問に答える:」という見出し以下2節目参照。)


 歴代志とエズラ記の矛盾: エズラの先祖

 エズラは、自分自身の家系についてこのように書いています。
これらの記述も矛盾しているように思えます。

 3 アムラムの子らはアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマル。
4 エレアザルはピネハスを生み、ピネハスはアビシュアを生み、
5 アビシュアはブッキを生み、ブッキはウジを生み、
6 ウジはゼラヒヤを生み、ゼラヒヤはメラヨテを生み、
7 メラヨテはアマリヤを生み、アマリヤはアヒトブを生み、
8 アヒトブはザドクを生み、ザドクはアヒマアズを生み、
9 アヒマアズはアザリヤを生み、アザリヤはヨナハンを生み、
10 ヨナハンはアザリヤを生んだ。このアザリヤはソロモンがエルサレムに建てた宮で祭司の務をした者である。
11 アザリヤはアマリヤを生み、アマリヤはアヒトブを生み、
12 アヒトブはザトクを生み、ザトクはシャルムを生み、
13 シャルムはヒルキヤを生み、ヒルキヤはアザリヤを生み、
14 アザリヤはセラヤを生み、セラヤはヨザダクを生んだ。
´歴代志上 6:3-14、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 1 これらの事の後ペルシャ王アルタシャスタの治世にエズラという者があった。エズラはセラヤの子、セラヤはアザリヤの子、アザリヤはヒルキヤの子、
2 ヒルキヤはシャルムの子、シャルムはザドクの子、ザドクはアヒトブの子、
3 アヒトブはアマリヤの子、アマリヤはアザリヤの子、アザリヤはメラヨテの子、
4 メラヨテはゼラヒヤの子、ゼラヒヤはウジの子、ウジはブッキの子、
5 ブッキはアビシュアの子、アビシュアはピネハスの子、ピネハスはエレアザルの子、エレアザルは祭司長アロンの子である。
´エズラ記 7:1-5、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 歴代志ではアロンとセラヤの間に20人の人の名前が挙げられていますが、エズラ記は14人です。
これが、筆者の無知によってもたらされた矛盾だとは言えません。
どちらの記述も筆者は同じエズラであり、書かれたのも同時期(西暦全460年ごろ)だからです。
これは矛盾ではなく、単なる簡略化です。
エズラはエズラ記を書いた時、「詳しいことは歴代志に書いたからそっちを見てね」ということにして情報を省略したのでしょう。
内容も重複しますし、エズラ気のテーマからしても、省いてかまわない情報だったのでしょう。
エズラ記でエズラは、イスラエル人の長い歴史記録をまとめようとしているわけではなく、エズラという登場人物を紹介する流れで系図に言及しているに過ぎないからです。
(「戦争のない世界がいつの日か実現しますか」という冊子の「聖書 ― 神の霊感を受けたものですか」10節を参照。エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行。)


列王紀と歴代志の並行記述の矛盾

 古代イスラエル国民の歴史について扱った列王紀と歴代志にも並行記述があります。
どちらの書もサウル、ダビデ、ソロモンの時代の統一イスラエル王国(ヘブライ王国)から、南北分裂後の北王国とユダ王国の歴史を扱っていて、内容が重なる部分が多いです。
それらに矛盾があるというのです。


 ダンかナフタリか´職人の母の部族についての矛盾点

 ソロモンの時代に活躍した職人の母親に関する記述で、矛盾と指摘される聖句があります。

 14 彼はナフタリの部族の寡婦の子であって、その父はツロの人で、青銅の細工人であった。ヒラムは青銅のいろいろな細工をする知恵と悟りと知識に満ちた者であったが、ソロモン王のところにきて、そのすべての細工をした。´列王紀上 7:14、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 14 彼はダンの子孫である女を母とし、ツロの人を父とし、金銀、青銅、鉄、石、木の細工および紫糸、青糸、亜麻糸、緋糸の織物にくわしく、またよくもろもろの彫刻をし、意匠を凝らしてもろもろの工作をします。彼を用いてあなたの工人およびあなたの父、わが主ダビデの工人と一緒に働かせなさい。´歴代志下 2:14、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 この職人の母親の部族は、ナフタリなのでしょうか、ダンなのでしょうか。
これは、ソロモン王の時代(西暦全11世紀)の出来事ですが、エレミヤが列王紀上を書いたのは西暦全580年ごろ、エズラが歴代志下を書いたのは西暦全460年ごろのことですから、二人とも、自分が直接見聞きしたことを書いているわけではありません。
この矛盾をどのように説明できるでしょうか。

 おそらく、この職人の母親はナフタリ族の男性と結婚していて死別したので、「ナフタリの部族の寡婦」と呼ばれているのでしょう。
しかし、この女性自身はダン族だったのでしょう。
前夫の死後、ツロ(ティルス)の男性と再婚し、その息子が職人になったと考えれば、両者の説明に矛盾はなくなります。
やはりエズラは、先に列王紀上を書いたエレミヤに気を利かせて、エレミヤが書いていない情報を追加し、重複する説明は省いたのでしょう。
(「ものみの塔」2005年12月1日号の「歴代誌第二の目立った点」という記事の「聖句についての質問に答える:」という見出しの直後の段落参照。)


 アハジヤの死に方に関する記述の矛盾

 エヒウがヨラム(エホラム)とアハジヤを殺した記述に関する矛盾もあります。

 21 そこでヨラムが『車を用意せよ』と言ったので、車を用意すると、イスラエルの王ヨラムと、ユダの王アハジヤは、おのおのその車で出て行った。すなわちエヒウに会うために出ていって、エズレルびとナボテの地所で彼に会った。
22 ヨラムはエヒウを見て言った、『エヒウよ、平安ですか』。エヒウは答えた、『あなたの母イゼベルの姦淫と魔術とが、こんなに多いのに、どうして平安でありえましょうか』。
23 その時ヨラムは車をめぐらして逃げ、アハジヤにむかって、『アハジヤよ、反逆です』と言うと、
24 エヒウは手に弓をひきしぼって、ヨラムの両肩の間を射たので、矢は彼の心臓を貫き、彼は車の中に倒れた。
25 エヒウはその副官ビデカルに言った、『彼を取りあげて、エズレルびとナボテの畑に投げ捨てなさい。かつて、わたしとあなたと、ふたり共に乗って、彼の父アハブに従ったとき、主が彼について、この預言をされたことを記憶しなさい。
26 すなわち主は言われた、「まことに、わたしはきのうナボテの血と、その子らの血を見た」。また主は言われた、「わたしはこの地所であなたに報復する」と。それゆえ彼を取りあげて、その地所に投げすて、主の言葉のようにしなさい』。
27 ユダの王アハジヤはこれを見てベテハガンの方へ逃げたが、エヒウはそのあとを追い、『彼をも撃て』と言ったので、イブレアムのほとりのグルの坂で車の中の彼を撃った。彼はメギドまで逃げていって、そこで死んだ。
28 その家来たちは彼を車に載せてエルサレムに運び、ダビデの町で彼の墓にその先祖たちと共に葬った。
´列王紀下 9:21-28、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 7 アハジヤがヨラムを見舞に行ったことによって滅びに至ったのは神によって定められたことである。すなわち彼がそこに着いた時、ヨラムと一緒に出て、ニムシの子エヒウを迎えた。エヒウは主がアハブの家を断ち滅ぼすために油を注がれた者である。
8 エヒウはアハブの家を罰するにあたって、ユダのつかさたち、およびアハジヤの兄弟たちの子らがアハジヤに仕えているのを見たので、彼らをも殺した。
9 アハジヤはサマリヤに隠れていたが、エヒウが彼を捜し求めたので、人々は彼を捕え、エヒウのもとに引いてきて、彼を殺した。ただし『彼は心をつくして主を求めたヨシャパテの子である』と人々は言ったのでこれを葬った。こうしてアハジヤの家には国を統べ治めうる者がなくなった。
´歴代志下 22:7-9、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 歴代志下の記述は、エヒウが直接アハジヤを殺したということを言っているように読めます。
列王紀下の記述は、それとは異なることを言っているように読めます。
この食い違いが矛盾ではないとすると、どのように解釈できるでしょうか。

 おそらくこういうことです。
エヒウはヨラム(エホラム)とアハジヤの二人に会い、エホラムを弓で殺します。
それを見たアハジヤは逃亡します。
エヒウはアハジヤを追いかけるのではなく、アハジヤを追いかけることは部下に任せて、まずはエホラムの死体をエホバの預言通りに扱うように行動します。
無実であるのに濡れ衣を着せられて処刑されたエホバの崇拝者ナボテの復讐が関係していましたから、これは重要なことでした。
エヒウはエズレルに向かいます。
エヒウの指示を受けてアハジヤを追いかけていた部下は、彼を捕え、エヒウの所に連れてきます。
エヒウは部下たちに彼を殺すよう命じ、部下たちはアハジヤに致命傷を負わせますが、彼はそこから更に逃げ、その途中、メギドで死にます。
歴代志の記述は、列王紀下にある出来事を、幾分簡略化して述べているのでしょう。
(「聖書に対する洞察」という聖書百科事典の「アハジヤ」第2項を参照。エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行。)


四福音書の並行記述に見られる矛盾

 新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)の矛盾箇所に話を移しましょう。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書の並行記述に見られる矛盾について考えましょう。


 杖は持っていくの?持って行かないの?´伝道活動に際してイエスが弟子たちに与えた指示に見られる矛盾

 イエスは弟子たちに、伝道活動をさせるに当たって指示を与えていますが、三つの福音書の並行記述には相違があります。

 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。
袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。
´マタイの福音書 10:9-10、新改訳聖書2017年版、新日本聖書刊行会、引用は一般社団法人新日本聖書刊行会(SNSK)ウェブサイト 聖書新改訳「聖句検索」から。

 そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、
履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。
´マルコの福音書 6:8-9、新改訳聖書2017年版、新日本聖書刊行会、引用は一般社団法人新日本聖書刊行会(SNSK)ウェブサイト 聖書新改訳「聖句検索」から。

 旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。´ルカの福音書 9:3、新改訳聖書2017年版、新日本聖書刊行会、引用は一般社団法人新日本聖書刊行会(SNSK)ウェブサイト 聖書新改訳「聖句検索」から。

 マルコ福音書の記述は、杖を持って行ってもいいと言っていますが、マタイ福音書とルカ福音書の記述は、杖さえも持って行かないようにと言っているように読めます。
この矛盾はどう説明できるでしょうか。
そして、これらの言葉から読み取れる教訓は何で、イエスはどういう趣旨でこのような発言をなさったのでしょうか。

 いずれの福音書筆者も、「2枚の下着」について述べています。弟子たちは既に下着を着けていたはずですが、余分の物を持って行かないようにと言われたのです。
マルコは、今持っている杖のほかは、余分な物を入手しないように、という書き方をしており、マタイとルカは、余分の杖を手に入れないようにと言う意味を強調しているのです。
伝道旅行に際して、弟子たちは余分の物を手に入れないようにと言う忠告を受けましたが、持っている物を捨てることまでは要求されませんでした。
なぜ余分の物を手に入れてはいけないのでしょうか。
その理由はマタイが書いています。
「働く者が食べ物を得るのは当然だから」です。
神のために働く人を、神が養ってくださるということです。
宣教旅行に出かけた先で、家に泊めてくれる人もいるでしょう。食べ物を分けてくれる人もいるでしょう。それら全ては、神エホバからの気遣いなのです。
そして、この指示は、神のご意志を第一にする人を神が世話するという、山上の垂訓でイエスが語られた考え方とも調和します。
(「ものみの塔」2011年3月15日号の「読者からの質問」参照。)


 書写上の誤りが矛盾を生じさせてしまっているケース

 次に、写本家たちが聖書を手作業で書き写していく時にミスをやらかしてしまった、という例をご紹介します。
イエス・キリストが杭にかけられたマタイ福音書とヨハネ福音書の記述ですが、イエスが絶命したタイミングについて、矛盾した記述があります。
マタイ27章49節の最後に余計な一文が足されていることで、並行記述のヨハネ19章33-34節と食い違いが生じているのです。
ヨハネの福音書では、兵士が槍でイエスを刺したときにイエスは既に死んでいましたが、マタイの記述ではその時点でイエスがまだ生きていることになっているのです。
これは、写字生がマタイ福音書を書き写している時にヨハネによる福音書の並行記述から情報を持ってきて間違った場所に挿入したものだと言われています。
もっとも、これが写本のミスであるということははっきりしていますので、ほとんどの翻訳聖書ではこの余計な一文を削除しています。
ヘボン訳聖書、文語訳聖書(明治元訳聖書および大正改訳聖書)、口語訳聖書、新契約聖書(永井直治訳聖書)、電網聖書、ラゲ訳聖書のマタイ 27:49にこの問題はありません。*3

 新世界訳聖書は、2019年改訂版では削除していますが、1982年版や1985年版(参照資料付き聖書)では、底本であるウェストコット・ホートに準拠して、二重角括弧で括って本文中に訳しています。
参照資料付き聖書は、マルコ16章の末尾やヨハネ7章から8章冒頭にかけても、やはり底本に準拠して写本家による付け足しを本文中に訳していますが、改訂版では省いています。
スタディー版聖書のマタイ27:49の注釈には、上に述べた写字生の挿入という事についての解説があります。
(「ものみの塔」2005年2月15日号の「あなたが実際に見ている奇跡」という記事中にある「すでに死んでいた? それともまだ生きていた?」という囲みをご覧ください。
また、スタディー版聖書のマタイ27章49節の注釈も合わせてご確認ください。)


旧約聖書と新約聖書の矛盾

 新約聖書が旧約聖書を引用したり、旧約聖書中の出来事に言及している箇所でも、記述の相違が見られ、矛盾であるとして指摘されます。
これを見てみましょう。


 アビヤタルを「大祭司」とする新約聖書の“間違い”

 アビヤタル(口語訳聖書は「アビアタル」と表記)に関する記述は、旧約聖書と新約聖書に矛盾があるとして引き合いに出される代表例です。
「大祭司アビヤタルの矛盾」といったタイトルのウェブページもいろいろあります。
これには、解釈の問題と翻訳の問題の両方が関係してきます。

 1 ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、『どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか』。
2 ダビデは祭司アヒメレクに言った、『王がわたしに一つの事を命じて、「わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない」と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。
3 ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください』。
4 祭司はダビデに答えて言った、『常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります』。
5 ダビデは祭司に答えた、『わたしが戦いに出るいつもの時のように、われわれはたしかに女たちを近づけていません。若者たちの器は、常の旅であったとしても、清いのです。まして、きょう、彼らの器は清くないでしょうか』。
6 そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下げたものである。
´サムエル記上 21:1-6、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

晩年のサウルはエホバの聖なる力の支えを失っており、罪に罪を重ねるひどい王でした。
エホバが次の王として別の部族※のダビデを選んだことを知ると、ダビデに対する妬みに駆られ、神の意志に逆らってダビデを殺そうとするほどになりました。
(※ サウル王はベニヤミン族でしたが、ダビデはユダ族でした。)
エホバが事を運ばれているのに、それを自分の力で阻止できると思っていたわけですから、ダビデを妬んでいただけでなく、エホバを侮っていたことになります。
ダビデはサウルから逃げており、その途中で祭司からパンを分けてもらいます。

 1世紀になると、イエスは旧約聖書中のこの出来事に言及し、反対者たちに反論すると同時に、弟子たちに教訓を与えます。

 23 ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。
24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った、『いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか』。
25 そこで彼らに言われた、『あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。
26 すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか』。
27 また彼らに言われた、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
28 それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである』。
´マルコによる福音書 2:23-28、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 さて、ここで気になる表現があります。マルコ2章26節の「大祭司アビアタルの時」という表現です。
ダビデが祭司からパンを分けてもらった時の大祭司はアビヤタルではなく、アビヤタルの父親のアヒメレクでした。
なぜこのような矛盾が生じるのでしょうか。

 イエスが無知だったなどということはあり得ません。
イエスは神の子であり、アブラハムが生まれる前から存在し、ダビデのパンの一件があった時にはそれを直接天からご覧になっていました。(ヨハネ 8:58)
エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行の聖書百科事典「聖書に対する洞察」の「アビヤタル」の項には、この点についての解説があります。

 まず第一に、「大祭司アビアタルの時」というフレーズは、一部の写本や訳本には出てこないという事です。
参照資料付き聖書のマルコ2:26の脚注によると、その「一部の写本や訳本」とは以下のものです。

    「大祭司アビアタルの時」という語を欠いている写本と訳本
  • ベザ写本,ギリシャ語およびラテン語(5世紀から6世紀)
  • フリーア福音書(5世紀)
  • 古ラテン語訳,イタラ訳(2世紀から4世紀)の複数の写本
  • シリア語シナイ写本(4世紀から5世紀)

(参照資料付き新世界訳聖書の脚注で使われている写本や訳本の略号については、「序文」に説明があります。)

 また、この表現はマタイとルカの並行記述にも出てきません。

 3 そこでイエスは彼らに言われた、『あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。』
´マタイによる福音書 12:3-4、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 3 そこでイエスが答えて言われた、『あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。
4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか』。
´ルカによる福音書 6:3-4、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 確かに、並行記述に「大祭司アビアタルの時」という表現は出てきません。
とはいえ、新世界訳聖書では、改訂版のマルコ2:26にもこの表現を含めていますので、これが後代の挿入だとか、霊感を受けた神の言葉の一部ではない、ということが言いたいわけではないようです。
「洞察」の本の続く記述に着目しましょう。

 マルコ12章26節とルカ20章37節に、ギリシャ語の似た構文が出てくるとのことです。

 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。´マルコによる福音書 12:26、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。´ルカによる福音書 20:37、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 マルコ2章26節、12章26節、ルカ20章37節に共通しているのは、いずれも引用の表現であるという事です。
このころは瞬時にテキスト全文検索ができるコンピューターソフトもなければ、コーデックス(冊子本)もなく、聖書と言えば巻物でした。
しかも、このころの聖書には章節番号がありませんでした。
章節番号が付されるようになったのはもっと後代のことでした。(「ものみの塔」2016 No.2の「聖書の章と節 だれが分けたのか」という記事をご覧ください。)
ですから、聖書から引用する時に、聞き手に引用したい箇所を正確に示すのは大変なことで、引用に際してはこのような大体の範囲を指定する表現が使われたのでしょう。
ユダヤ人たちは、毎週まじめに会堂に通っていれば、聖書に関する教育を受けられましたから、当時のユダヤ人の聖書知識は、一般庶民も含めてわりとレベルの高いものでした。
聖書の大半を暗記しているという人も大勢いたことでしょう。
それで、イエスは旧約聖書を引用するにあたって、その大体の位置を示すために、「大祭司アビヤタルについての記述の中で」という表現を使われたのです。
ダビデがパンを分けてもらった時点ではアビヤタルではなくアヒメレクが大祭司だったものの、その後アビヤタルは大祭司になっているわけですから、イエスの言い方に間違いはないという事です。
(宮原崇さんのサイトの「マルコ 2:26」の項もご覧ください。)

 また、私たちは過去に存在した人の話をする時に、その人が最も高い(または目立つ)地位にいた時の肩書や称号でその人を指すというのはよくあることではないでしょうか。
例えば、こういう文章があったとします。
「ベネディクト16世は第2バチカン公会議に背を向けるマルセル・ルフェーブル大司教などの運動には批判的であり、大司教がバチカンの許可なく司祭を叙階しようとした際には、バチカンを代表して直接面談し、『司教があくまでも分裂(シスマ)の道を進むのであれば、教会を破門されるだろう』と『改めて具体的に警告』して、伝統派を牽制した。」
この文に対して、こういうことを言う人がいたとします。
「彼がこれを語った時、彼はまだローマ教皇にはなっていなかった。ベネディクト16世と呼ぶのは不適切だ。ヨーゼフ・ラッツィンガーと呼ぶべきだ。」
確かに正しい指摘ですが、こういった表現は日常的に使われているのではないでしょうか。
「ケネディ大統領は13歳の時にコネティカット州ニューミルフォードのカトリックの寄宿学校であるカンタベリー・スクールに入学した」という文を読んで、「13歳のころはまだ大統領ではなかった」と突っ込む人はまずいないでしょう。
アビヤタルも、大祭司というのが彼の人生の中で最も目立つ立場だったわけですから、人生のどの時期について言及される場合であっても「大祭司アビヤタル」と呼ばれるのはごく普通のことです。

 (なお、この見出しで触れたマルコの聖句では、「聖なるパン」の取扱いに対する規則違反をイエスが是認しているように読めます。
この聖句の意味については、当ブログの「聖書の原則を正しく当てはめるには」という記事に短い解説を書いています。
解説は「その2」にありますが、「その1」からお読みいただけたらと思います。)


 聖書筆者マタイは引用箇所を間違ったのか

 アビヤタルの例で、引用の表現という話をしましたが、マタイ福音書には似たような例があります。

 9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、『彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、
10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた』。
´マタイによる福音書 27:9-10、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 これは、ユダ・イスカリオテがイエスを裏切ることについての預言の成就を説明する聖句です。
マタイはその預言はエレミヤによって語られていたと書いているのですが、エレミヤ書を見ても、エレミヤが書いた哀歌や列王紀上、列王紀下を調べてみても、そのような預言は見当たりません。
この預言はこんなところに出てきます。

 わたしは彼らに向かって、『あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい』と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。´ゼカリヤ書 11:12、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 ゼカリヤ書からの引用です。これを書いたのはエレミヤではなくゼカリヤです。
聖書筆者マタイはうっかりミスをやらかして、引用元を間違って書いてしまったのでしょうか。

 そういうことではないようです。
イエスの時代、旧約聖書は大まかに三つに分けられていました。「律法」と「預言者の書」と「諸書」です。
「律法」はエホバがイスラエル国民に与えた600ほどの律法の条項だけを指すのではなく、モーセ五書全体を指すものでした。
そして、「預言者の書」の巻頭にはエレミヤ書が来ていたので、預言者の書全体を指す表現として、マタイは「エレミヤ」と書いたのです。
同じように、「諸書」を表す意味で、その代表格である「詩篇」という言葉が使われることもありました。
ですから、イエスがルカ24章44節モーセの律法と預言書と詩篇と語られたのは、旧約聖書全体という意味で、その中にはモーセ五書のうちの律法とは関係のない記述も、詩篇以外の諸書も、預言者の書のうちのメシア預言とは関係のない記述も含まれていました。

 このように、聖書には、「厳密に言うと違うかもしれないが便宜上使われている表現」がいろいろとあります。
これもある人たちにとっては罠になり得るのでしょう。「聖書は矛盾している」とか「聖書は知性の低い人間が書いた本だ」という結論に誘導される人もいるでしょう。
(「ものみの塔」2010年12月1日号の「ご存じでしたか」という記事をご覧ください。)


「○○人」という表現に見られる矛盾

 聖書には「○○人」という言葉がいろいろ出てきますが、これが民族(血筋)を指す場合と単に居住地域を指す場合とがあります。
また、同名の地名や似た地名が複数あるということもあります。
こういった理由から、聖書が矛盾しているように思える箇所がいくつもあります。


 エサウの妻の祖父ツィベオンの民族に関する矛盾

 創世記36章の中に矛盾があると考える人もいます。
エサウの妻の祖父はどの民族だったのでしょうか。

 2 エサウはカナンの娘たちのうちから妻をめとった。すなわちヘテびとエロンの娘アダと、ヒビびとヂベオンの子アナの娘アホリバマとである。
20 この地の住民ホリびとセイルの子らは次のとおりである。すなわちロタン、ショバル、ヂベオン、アナ、
24 ヂベオンの子らは次のとおりである。すなわちアヤとアナ。このアナは父ヂベオンのろばを飼っていた時、荒野で温泉を発見した者である。
´創世記 36:2,20,24、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 2節では「ヒビ人ヂベオン(ツィベオン)」とあるところ、20節には「ホリ人」とあります。
聖書はヒビ人とホリ人を明確に区別しているので、ホリ人がヒビ人の別名だったとは考えられません。
これを矛盾と指摘する人もいます。
どう考えたら良いでしょうか。

 どうやら、「ホリ人」には複数の意味があったようです。
ここでは、ヘブライ語のホール(「穴」)に由来する表現として使われていて、「洞くつに住む者」を意味しており、ツィベオンは「洞窟に住むヒビ人」だった、と考えられるようです。
(「聖書に対する洞察」の「ホリ人」の項参照。)


 「ギト人オベデ・エドム」

 ギト人オベデ・エドム(口語訳聖書は「ガテびとオベデエドム」と表記)について考えてみましょう。
サムエル記にはこうあります。

 10 ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテびとオベデエドムの家に運ばせた。
11 神の箱はガテびとオベデエドムの家に三か月とどまった。主はオベデエドムとその全家を祝福された。
12 しかしダビデ王は、『主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている』と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。
´サムエル記下 6:10-12、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 これは、ダビデが契約の箱の扱いを間違えてアビナダブの子ウザが処罰された後の出来事です。
ウザの一件があった後、契約の箱はオベデ・エドムの家で3か月間保管されたとあります。
ギト人は普通フィリスティア人を指して使われる言葉ですが、オベデ・エドムは契約の箱の管理を任されたのですから、レビ族だったはずです。
それで、この文脈の中での「ギト人」は、フィリスティア人という意味ではなく「ガト・リモン出身のレビ人」という意味だったと思われます。
(「聖書に対する洞察」の「オベデ・エドム」第1項を参照。)


聖書も認める聖書の「分かりにくさ」

 さて、ここまでで、矛盾とされる聖書の言葉について、それが矛盾していないと言える考え方やいくつかの可能性について取り上げてきました。
もしかしたらこんな感想を持たれたかもしれません。
「なるほど、聖書が矛盾していないらしいことは分かった。それにしても、聖書って分かりにくい書き方をしているな。もっと親切な書き方をしてくれればいいのに。」
気持ちは分かります。
実はこの「聖書の分かりにくさ」については、当の聖書自身が認めてしまっているのです。
使徒ペテロはこのように書いています。

 15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。
16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
´ペテロの第二の手紙 3:15-16、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから(節番号挿入)。

 聖書にところどころ分かりにくい箇所があることは、聖書そのものが認めており、その分かりにくさゆえに、ある人たちは曲解して躓いていくということが語られています。
ですから、この記事の冒頭で述べたように、そのようにして不信仰な人や盲信する人や中途半端な信じ方をする人をふるいにかけるのは、聖書の著者エホバの作戦であるという事がよく分かります。

 もしあなたが、選挙に立候補したり、自分が立ち上げた会社の株を買ってもらおうと投資家を探していたり、クラウドファンディングを実施して支援を募っているとしたら、どんなアピールをするでしょうか。
きっと、自分を魅力的に見せ、自分の理念や計画の素晴らしさを語って、人々を説得しようとすることでしょう。
しかし、エホバはそのような方法は採られませんでした。
あえて、聖書を「矛盾だらけの本」のように見せ、聖書筆者たちが知性の低い人だと思われかねないような書き方をさせ、神への誠実な信頼と健全な理性と探求心のある人だけが、真理に到達できるようにされました。
エホバは神であり、万物の創造主であり、宇宙の主権者ですから、人間に媚びる必要などないのです。
ですから、聖書を書くに当たっては、あちこちに罠を仕掛け、「分かる人だけが分かればいい」という書き方をして、読者の信仰と専心の思いを試しておられるのです。

 神が与える真理は簡明です。
「神を愛しましょう」、「隣人愛を示しましょう」、「正しく生きましょう」というのが聖書の基本的な教えで、神学博士になるための高等教育を受けた人しか理解できないとか、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語の学者にならなければ正しい聖書の知識は得られないなどということはありません。
聖書時代も、漁師や羊飼いのような普通の人たちが、神に導かれ、イエス・キリストの弟子になったのです。
とはいえ、聖書の教えは簡明ではあっても奥深く、聖句の中には理解しにくいものもあります。
謙遜な態度で注意深く探求する人だけが、真理に到達できるのです。

 エホバの証人の信条は、キリスト教の他教派からは、異端的だとか風変りだと言われることがありますが、それら全ては、聖書の言葉の矛盾と思える記述の整合性を考えて、つじつまを合わせていく作業を丁寧に行ってきた結果です。
上にも少し引用しましたが、宮原崇さんのサイトの「ルカ23:43」の項をもう一度見てみましょう。

 キリスト教は一般的には非合理主義であり、話のつじつまを気にしない、もしくは気にしてはならないというところがあります。しかしエホバの証人はこういったことをとても気にかけます。この聖句の問題点に取り組む姿勢はいかにもエホバの証人らしい振る舞いだと言えるでしょう。

 分かりにくい聖書を「こんなものは神の言葉ではない」と決めつけるのでも、「意味はよく分からないけどとにかく正しいんだ」と盲信するのでも、「聖書には正しいことも間違ったことも書いてあるから気に入ったところだけ信じよう」と考えるのでもなく、祈りのうちに研究を続け、秘められた神のお考えを、誠実かつ謙遜に探求することを、エホバは求めておられるのです。
そのために、圧倒的な知識で人間を論破するのではなく、人間から見て愚かしく見える方法を用いて謙遜な人にご自分のメッセージを届けようとしておられます。

聖書は霊感によって書かれた神の「みことば」です

 聖書は神の言葉であり、神の聖なる力の導きによって書かれたもので、聖書に間違いはありません。(テモテ第二 3:16)
この記事を読んでおられる方々に、是非、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)が発行している新世界訳聖書´参照資料付きの「前書き」「序文」をお読みいただきたいと思います。
これを読むと、新世界訳聖書翻訳委員会のメンバーが、本気で聖書を信じており、聖書が神の言葉であることに一点の疑いも抱いていないという固い信仰を読み取ることができるでしょう。
私は研究生の頃(エホバの証人としてバプテスマを受ける前のこと)、この新世界訳聖書の前書きを読んで大変感動しました。
自分も、持てる者ならこのような強い信仰を持ってみたいものだと思いました。
遜った心で、神を求めて祈りのうちに聖書を研究するなら、きっとそのような信仰を持てるはずです。

聖句と聖句を比較するのが聖書の正しい解読法

 聖句と聖句を比較して意味を解読していくのが、聖書の正しい読み方です。
最も優れた聖書の解説者は、聖書自身なのです。
聖書を読んでいて意味が分からない表現にぶつかったなら、憶測したり高等批評家の本を読んだりするのではなく、聖書のほかの箇所を調べて、意味を探るのです。

 例えば、霊魂絶滅という聖書の教えについて考えてみましょう。
キリスト教の様々な教派や、キリスト教以外のいろいろな宗教(聖書を聖典とするユダヤ教やイスラム教を含む)では霊魂不滅が長年信じられてきました。
しかし、コリント第一15章50-56節には、不滅性は忠実な人に対する神からの報いであるとあります。
不滅性が忠実な人への報いであるなら、邪悪な人の魂が不滅であるなどということがあるでしょうか。
聖書のほかの箇所はこの点について何と述べているでしょうか。

 からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさいというマタイ10章28節のイエスの言葉は、魂が死に得るものであることを述べており、エゼキエル書18章4節にははっきりと罪を犯した魂は必ず死ぬとあります。
では、ユダの手紙の7節で、ソドムとゴモラの人々が永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされているとあるのはどう解釈すべきでしょうか。
ペテロ第二2章6節が、ユダ7節を理解する助けになります。
そこには、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし(た)とあります。
ソドムとゴモラの人々は処罰され、彼らの魂も死にましたが、後代の人々に対する見せしめとしての教訓や判例としての影響力は、永遠になくならないのです。

 このように、一つの聖句を読んでいて疑問を抱いたなら、聖書のほかの箇所を参照し、そこで更に疑問が湧いたならまた別の箇所を調べていき、全体のつじつまを考えながら聖書を解釈するという作業が200年ほど続けられてきた結果、聖書の言葉の意味がかなり分かってきました。
ものみの塔協会の初代会長のチャールズ・テイズ・ラッセルはこの聖書研究の手法の点で、ジョージ・ストーズから大きな影響を受けており、そのジョージ・ストーズもヘンリー・グルーから影響を受けています。

 ジョージ・ストーズはもともとメソジスト監督教会の牧師でしたが、聖書研究の結果霊魂絶滅などメソジスト教会の教理と相容れない信条を持つようになり、牧師を辞めています。
ヘンリー・グルーはイングランドのバーミンガム出身で、13歳の時に家族とアメリカに渡り、後にコネティカット州ハートフォードにあるバプテスト教会の牧師になりましたが、やはり聖書を研究したことで三位一体の否定など教会の教えと相容れない信条を持つようになり、牧師を辞めています。
チャールズ・テイズ・ラッセル(1852年-1916年)はジョージ・ストーズ(1796年-1879年)と会っており、ジョージ・ストーズはヘンリー・グルー(1781年-1862年)と会っています。
ジョージ・ストーズは一時期セブンスデー・アドベンチスト教会のウィリアム・ミラーの聖書研究グループとの親交がありましたが、彼らが世界の消滅や無知のまま死んでいった人々には永遠の命の希望がないといった非聖書的な信条を持っていたために関係を断ちました。

 聖書の意味を聖書で解き明かすことについては、このようなことが言われています。

 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。´コリント人への第一の手紙 2:13、口語訳新約聖書、1954年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 聖書の言葉を人間の知恵で解釈するのではなく、聖書の言葉は神の聖霊によって解釈する必要があり、一番良い方法は聖書そのものを聖書の解釈者として認めることです。
これが聖書の正しい読み方なのです。
人間の知恵、つまり高等批評や憶測を交えず、聖書だけを聖書解釈の権威とするのです。
考古学上の資料や聖書以外の古文書の情報も参考程度にはなりますが、聖書に優先すべき情報源ではありません。

 (この見出しで述べたジョージ・ストーズとヘンリー・グルーについてはこちらの資料に情報があります。
「ものみの塔」2006年8月15日号 「『聖句を聖句と比べてみよう』」
「ものみの塔」2000年10月15日号 「『畑』で働く ― 収穫の前に」)

奇抜な表現に翻弄されないようにする

 聖書には奇抜な表現があり、それがいろいろな憶測を招いているところがあります。
こういった箇所でも聖書を聖書の解釈者とし、冷静に解読していくことが重要です。
宮原崇さんのサイトの「ヨハネ 1:1」の項にはこうあります。

 黙示表現ということもよく念頭に置いておく必要があります。もしある組織がある信条や行動を他者に対して秘密にしたいと思うなら、隠語を用いることでしょう。たとえば、戦争中に軍が通信を送るとして『トラ・トラ・トラ』と言えば『我奇襲に成功せり』という意味であるという具合です。宗教にもこのような手法が多用されています。ただ、いくつかの宗教では秘密にしたい内容を目立たせないように表現を一般化する傾向が見られるのに対し、聖書は表現を過激にする傾向が顕著です。一見して普通に思える内容の文書や会話に特別な意味が忍ばせてあるのではなく、一見して普通でない文書や会話に一般的な意味が込められます。ですから、聖書の黙示表現に不慣れな人は、その奇抜な表現に翻弄されることになります。

 例えば、黙示録には、野獣にバビロンと呼ばれる娼婦が乗っているという奇異で強烈でショッキングな幻が出てきます。
これは「大淫婦バビロン」とか「大いなるバビロン」などと呼ばれ、多くの人の好奇心を掻き立て、様々な憶測を呼んでいます。
しかし、「獣」や「不倫」が聖書中でどのような意味で使われているか、「バビロン」にはどんな特色があったかといったことを手掛かりに、ルールに沿って解読していけば、正しい意味にたどり着けますし、そのようにして導き出される答えは、わりと平凡なものだったりします。(jw.org の「聖書 Q&A」の「大いなるバビロンとは何ですか」という記事をご覧ください。
ヨハネの黙示録にはこういった奇抜な表現がたくさんありますが、それらの幻の意味を理解するヒントは聖書のあちこちにあり、ルールに沿って解読していくなら、そこまで奇抜な内容でもないという事が分かります。

 聖書を読む時にはこのようにして、奇抜な表現に翻弄されないことも求められます。

聖書の矛盾点を調査したい方へ: ものみの塔出版物索引のご紹介

 この記事で例示してきた聖書の“矛盾点”と、それが矛盾ではないと考えられる説明については、「ものみの塔出版物索引」にある情報を参照しました。
この索引は毎年更新されており、収録されている情報は増え続けています。

 お薦めしたいのは、この索引の「聖書の信ぴょう性」という項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下です。
現時点で、日本語版の索引には98の矛盾とされる箇所とそれに対する説明が書かれた資料の出典情報が掲載されています。
これらを一つ一つ研究していくだけでも、聖書に対する信頼は深まることでしょう。
また、索引のこの項目には、矛盾とされる聖書の言葉が実は矛盾していない、という資料の一覧だけでなく、聖書筆者たちの信頼性や聖書の登場人物の実在性、聖書の科学的正確さなどについての色々な資料も載っていますので、気になったところからお読みになると良いと思います。

 もっとも、いくら聖書を調べても答えが出てこない質問もあります。
エホバがまだ、ご意志を明らかにされていないこともあります。
千年王国が統治する地上のパラダイスに聖書時代の人々が復活してきたときには、もっと多くのことが明らかになるでしょう。
聖書を注意深く調べるなら、多くの理解が得られますが、それでも今はまだ分からないこともあり、そのような時には、聖書の著者エホバ神に対する信仰が試みられます。
それでも、聖書に重大な欠陥や疑義があるわけではないという事は、今ある証拠を調べるだけでも断言できることです。

追加の説明: www.jw.orgと、ものみの塔オンラインライブラリー(wol.jw.org)の使い分けについて

 エホバの証人のサイト www.jw.org と、ものみの塔オンラインライブラリー wol.jw.org はどう違うのだろう、同じような情報が収められているようだし、どう使い分けたらいいのだろう、と疑問に思っておられる方もいらっしゃることでしょう。
この点についてご説明します。

 ものみの塔オンラインライブラリーでは、ものみの塔協会によって印刷物として発行されてきたものと、jw.orgの「シリーズ記事」、および「マニュアルとガイドライン」を読むことができます。
雑誌や書籍などは、www.jw.org よりもものみの塔オンラインライブラリーのほうが情報が豊富で、www.jw.org では2000年以降の雑誌が読めますが、ものみの塔オンラインライブラリーではもっと古い資料が読めます。
この記事を書いている時点で、「ものみの塔」は1962年以降、「目ざめよ!」は1970年以降のものが読めます。(現在、過去に遡って情報が追加されています。英語版では1950年まで遡ることができます。)
書籍や小冊子も、www.jw.org には載せられていない古い資料が読めます。

 他方、www.jw.org では読めるけどものみの塔オンラインライブラリーでは読めないというものもあります。
ニュースルームセクションの情報などです。
また、電子出版物はよく更新され、表現が変わったりすることも時々あるのですが、ものみの塔オンラインライブラリーは更新の反映が遅いようです。
変更があった場合には、まずはダウンロード版の電子出版物から更新されていくのが普通です。
それで、最新版の資料を確認したい方は、JW Libraryアプリをインストールして、いつでも最新版の資料を確認できるようにしておかれるのが良いと思います。
JW Libraryアプリを入れなくても、jw.org から各種電子書籍やオーディオブックはダウンロードできますし、jw.org のHTML版やものみの塔オンラインライブラリーも順次更新されていきます。

 それで、使い方は人それぞれではありますが、1. 古い資料を含む膨大な量の出版物を検索したい場合にはものみの塔オンラインライブラリー、2. JWニュースを読むなら www.jw.org、3. 最新版の資料をダウンロードしたりJW Broadcastingの動画を観たり聖書朗読を聞いたりするにはJW Libraryアプリ、といった使い分けができるかと思います。

まとめ

  • 聖書の著者はエホバ神(テモテ第二 3:16)
  • エホバは、1. 疑い深く謙遜差のない読者、2. 何でも信じ込む安直な信者、3. 気に入った聖句だけを受け入れる生ぬるい信者が聖書の真の意味に到達できないよう、聖書に罠を仕掛けられた
  • 聖書の矛盾と思える箇所はエホバが仕掛けた罠であり、調べずに拒絶したり、深く考えずに受け入れたり、高等批評家に頼ったりするのではなく、誠実かつ丁寧に調査することが大切
  • 福音書などの聖書の並行記述は、「若干の相違」があるからこそ、それらの記述を比較することで、何があったかをより立体的に把握することが可能であり、そういった観点から相違点に着目し、解読することが重要
  • 聖書の最も優れた解釈者は聖書自身であり、聖書を読んでいて分からないことがあれば、聖書のほかの箇所を調べ、全体の調和を考えながら結論を導き出していくのが聖書の正しい読み方
  • 聖書自身が聖書の分かりにくさを認めており、神に頼り、謙遜かつ誠実に、また慎重に、神への信頼のうちに聖書を調べる人だけが、真の知識に到達できる

補足: 実践した時に初めて実感できる聖書の知恵の価値

 知識を積み上げていくことで聖書に対する信頼を深めていくことは重要です。
しかし、頭に情報を蓄積していくだけでは、聖書の知恵の素晴らしさは十分には実感できません。
ある程度知識を深めたなら、次は聖書の教えを実践することで、聖書の教えの価値を味わうことが重要です。
先日の記事にその点を書きましたので、以下引用します。

 聖書を研究すると言っても、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語やラテン語などの知識を詰め込むより、『実践することによってエホバの知恵の偉大さを味わう』ということが重要です。
例えば、自分に反感を抱いているかもしれない人のことを思い出したなら自分から近づいて和解するようにというイエスの教え(マタイ 5:23-24)を実行し、『聖書の教えの通りにしたら本当に物事がうまくいった!』という経験を通してエホバの知恵の卓越性を味わうのです。
これは奇跡ではありませんが、このような実体験を通して信仰は深まっていくのです。
´「奇跡(超常現象)はそれが真の宗教だという証拠ではない」

 聖書を研究する目的は「神を知る」ことです。
神を知るとは、エホバへの崇拝を実践し、来る日も来る日もエホバに頼り、祈りで導きを求めながらエホバと共に歩み、エホバの友となり、日々の生活を通してエホバの素晴らしさを味わうことです。
神を知ることと、神について知ることは違います。それは、恋をすることと、恋についての本を読むことくらい違います。(「エホバの日を思いに留めて生きる」第5章19節参照。エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)発行。)
聖書を読んで、ただ学術的な知識として頭の中に情報を蓄えるだけでは不十分であり、その教えを実践し、神に頼る生き方をもって、聖書の素晴らしさを味わっていくことが重要です。

 聖書は矛盾しているのか、矛盾していないのか、というのは、聖書を学ぶうえでの入口の議論に過ぎません。
エホバの証人の聖書レッスンでは、そういった知識も学びますが、聖書の研究にはそれ以上の目的と価値があると考えています。

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*1:「モーセ五書」とは、モーセが書いた聖書巻頭の五つの書で、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。ペンタチュークとも呼ばれます。申命記の末尾のモーセの死に関する記述を書いたのはモーセの後継者のヨシュアです。モーセはこのほかにもヨブ記と詩編90編も書きました。詩編91編は90編の続きと思われるため、おそらくモーセが書いたのだろうと言われています。

*2:監督: セシル・B・デミル、脚本: イーニアス・マッケンジー、ジェシー・L・ラスキー・Jr、ジャック・ガリス、フレドリック・M・フランク、音楽: エルマー・バーンスタイン、モーゼ役: チャールトン・ヘストン。パラマウント映画

*3:各訳本によって、書名が若干異なります。口語訳聖書と電網聖書は「マタイによる福音書」、ヘボン訳聖書と文語訳聖書は「馬太傳福音書(マタイ伝福音書)」、ラゲ訳聖書は「マテオ聖福音書」、新契約聖書(永井直治訳聖書)は「マタイ傳聖福音」となっています。