エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

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 エホバの証人に関する話題を、一人の一般信者の素朴な視点から綴り、感想や観察を述べていきます。

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親友はいますか?´支え合える友を持つことの大切さ(JWの場合)

 親友を持つことはとても大切です。
エホバの家族の中に親友を持つと、支え合い、励まし合うことができます。
「親友を持つのは良いことだ」というのは、エホバの証人ではない方々も感じておられることで、一般的にもよく言われることです。
とはいえ、私たちエホバの証人には、そのような親友は必須の者であり、親友を持つべき聖書的な理由がある、というのが一般的に言われる親友の必要性の話と違ってくるところです。

「真の友」と「親しい友」

 本題に入る前に用語の説明をしましょう。
ものみの塔出版物には「真の友」と「親しい友」という表現が出てきます。
これらには意味に違いがあり、「真の友」より「親しい友」のほうが意味範囲が狭く、対象が限定されます。
同じ信仰を持つ兄弟姉妹は皆私たちの真の友ですが、親しい友と言うのは、特に個人的に深く関わる少数の人のことです。
「イエスにとって、弟子たちは全員真の友である」とは言えますが、親しい友というと、ヨハネやラザロなど、特に個人的に強い愛着を抱いていた人たちを指します。
(「ものみの塔」1987年9月15日号の「どうすれば真の友を得られますか」という記事に説明があります。)

良い時も悪い時も、何でも話せて支え合えるのが親友

孤立は有害

 良い時も悪い時も、何でも話せて支え合えるのが親友です。
もちろん私たちにはエホバという友がいて、いつでも祈りで心の内を打ち明けることができますが、それだけではなく、やはり私たちには人間の親友が必要です。
エホバはとても近づきやすい方ですが、同時に私たちの神であり、崇拝の対象でもあります。
私たちにはエホバという友だけでなく、同じ立場で語り合える人間の親友が必要なのです。
聖書は、人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対すると述べ、孤立の有害性について警告しています。(箴言 18:1、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。)
最近では、専門家の間で「孤立は喫煙と同じくらい健康に有害である」とも言われているそうです。
孤立が有害であると言える理由としては、友からの助言を聞く機会がなくて知恵を得そこなう(陰謀論に惑わされやすくなるなど)ということと、友からの感情的な支えを得られなくなるということと、また、人とのかかわりが希薄になることでいろいろな意味でチャンスを逃してしまうということなどが挙げられます。
これは一般論ですが、エホバの証人の場合、もう一つの理由が挙げられると思います。

「弱った時に何でも話せる友達」の大切さ

 自分が弱くなった時に、何でも話せる友達はとても大切です。
弱くなった時というのは、信仰が弱って霊的に元気を無くしている常態も含みます。
このような時、周囲の人がその人を遠ざけたり、本人も気恥ずかしさから助けを求められなかったりという事がよくあるのを、私は見てきました。

 例えば、ある兄弟は正規開拓者として熱心に奉仕し、会衆の奉仕にも忙しく取り組み、兄弟姉妹をよく家に呼んでもてなし、一時的に外国にも伝道に出向き、集会でもよくコメントしていましたが、ある時期を境に開拓奉仕を辞め、集会を休みがちになり、集会に出席してもほとんどコメントしなくなりました。
この兄弟に“何かがあった”ことは明らかです。
それなのに、同じ会衆の兄弟姉妹はその兄弟に、「どうしたの?最近元気ないね」と聞くこともなく、なんとなく遠ざけているようなのです。

 会衆内の兄弟姉妹に悪気はなかったことでしょう。
なんと声を掛けたら良いか分からなかっただけなのかもしれません。
しかし、このように、その人が一番助けを必要としている時に本質的な話題に踏み込まず、なんとなく遠ざけてしまったり当たり障りなく接しているだけというのは、悪意がなかったとしても非情なことだと思います。
幸いにもその兄弟は元気を取り戻し、集会も休まなくなりました。そうすると会衆内の兄弟姉妹は再びその兄弟に声をかけるようになったのですが、その兄弟は、「元気になるとみんな話しかけてくれるようになるんだな。元気がない時に助けて欲しかった」とこぼしていました。

 会衆内の兄弟姉妹が元気をなくしていたころのその兄弟を遠ざけていたのは、「気を遣っていたから」かもしれませんし、もしかするとテモテ第二2:20-21を誤って適用してしまっていたからかもしれません。
「木や土の器」から離れているようにと言う助言です。
この聖句を、元気をなくしてしまっている人に間違って適用してしまうことの問題については、以前の記事に書いていますので、以下引用します。

こういうことを言う人もいるかもしれません。
『自分の信仰は自分で守らなければならない。会衆内でどんなトラブルがあったとしても、それを理由に神を捨てるのは筋違いだし、結局のところ、自分の救いは自分が努力して達成していくしかない』。
これは極論というものです。
表現において間違ってはいませんし、聖書にもこのとおりのことが書かれています。
しかし……手を差し伸べて助けようとするのが、イエスに倣うということではないでしょうか。
イエスは、水の上を歩いたのに嵐を見て怖くなり、沈み始めたペテロに手を差し伸べ、助けました。
「それ見たことか、あなたの信仰が足りないから悪いのだ、自業自得である」などとは言いませんでした。

 私は、兄弟姉妹の中にこのような『非情な自己責任論者』が少なからずいることを残念に思います。

……

 「洞察」の本の「足のなえた人,足のなえた状態」という項の「霊的に足のなえた人たちに対する配慮」という見出し以下に書かれていることにも注目できます。
身体障碍のある人は助けを必要としています。
それと同じように、霊的に弱っている人を「助けを必要としている人」と見なして接することが重要です。
「信仰が弱ってしまったのは彼自身の問題だ」とか「この兄弟は『木や土の器』だから距離を置こう」などと考えるべきではありません。
テモテ第二2:20-21でパウロが距離を置くべきだと言っているのは、会衆内で背教的な考えを広めている人たちのことであり、霊的に元気をなくしてしまった人のことではありません。
ところが、兄弟姉妹の中には、霊的に元気をなくしてしまった人からむやみに距離を置こうとする人たちがいます。
あるいは、信仰が弱くなってしまうということを「恥」と考えているようなところもあり、「最近元気なさそうだね。どうしたの?」と尋ねることさえはばかられる、と考えているような人もいます。そうしたら、相手のプライドを傷付けてしまうかもしれない(実際、そのように受け取る人もいる)と考えるからです。

 信仰というのは、強くなったり弱くなったりという波を、少なからず誰もが経験してきたのではないでしょうか。
霊的な日課をサボっていたというような、当人に落ち度がある場合もありますが、ショッキングな出来事を体験して、感情的なバランスを崩したことから霊的健康を損なってしまう、という偶発的なケースもあります。
どちらにせよ、その愛すべき仲間は私たちからの助けを必要としています。

´「エホバの証人の体罰問題´兄弟姉妹へのメッセージ(その5)」 「『憐れみのないエホバの証人』問題」

 信仰が弱くなってしまった時、そんな自分を恥ずかしく思う気持ちは分からなくもありません。
しかし、そういう時こそ、弱っている自分をありのままにさらけ出し、助けを求められる親友が必要なのです。
「霊的に元気な時にはあの人とは話が合うんだけど、元気がない時には気後れして顔を合わせにくいな」と思っているとしたら、それは親友とは言えません。
私はこの点で、信仰が弱っている時にそのことを包み隠さず話せる親友に何度も助けられた経験があり、本当に感謝しています。

「消極的な話をすべきではない」という言葉が持つ“暴力性”

 古代イスラエル人はモーセに不満を言い、マナに不満を言い、エホバに対して不遜な態度を取り、そのことは聖書の中で厳しく戒められています。(民数記11-12章)
ツイッターなどを見れば分かりますが、ネガティブな発言はあっという間に拡散します。
噂にされた人を傷付けるだけでなく、そういう話を聞かされている側も嫌な気持ちになったりするものです。
ですから、ネガティブな噂話をしたり公然と愚痴を言ったりするのは愛のないことであり、避けなければなりません。(「ものみの塔」2006年7月15日号の「『つぶやかないようにしてゆきなさい』」という記事を参照。)

 ただ、「愚痴を言うべきではない」という原則にもやはり例外はあり、ネガティブなことは一切言ってはいけないということでもありません。
たくさんの人がいるところで公然と不平不満を言ってエホバに言い逆らったりだれかの評判を傷付けることは間違っていますが、配偶者や親友など信頼のおける限られた相手に対して本音を言ってはいけないということではありません。
長老の中にも、ネガティブな発言を聞くとすぐに咎めてしまう人がいますが、会衆内で公然と言っているのではなく、牧羊訪問の時に愚痴を言うくらいは黙って受け止めてあげてほしいものです。
そうでないと、だれも本音を言えなくなってしまいますし、実際にそういう事態はあちこちで起きています。

 「消極的な話をすべきではありません」という言葉は、使い方によってはかなりの暴力性を帯びます。
この一言で、心を開いて本音を吐露しようとしている人の口を封じ、心を押さえつけるほどの威力があるからです。
公然と愚痴を語ることと親友に本音を打ち明けることは区別されるべきですし、これは箴言15:22とも調和する考え方です。

 例えばあなたは、昔自分を傷付けた姉妹のことを恨んでいるかもしれません。
最近組織内で大きな責任を任され、何らかの立場に任命された兄弟のことを妬ましく思っているかもしれません。
恨みも妬みもよくないことですが、不完全な人間にはついて回る問題でもあり、こういった本音を友人に打ち明けることが必ずしも間違っているというわけではありません。
悪い噂話をして相手に同調を求めるような形で話題にするのは間違っていますが、恨みや妬みが良くない事であるということをきちんと認識したうえで、自分の弱さを打ち明けるのは間違ったことではありません。

 統治体も、「消極的な話はしないようにしましょう」と言いつつも、そういった話題を全面的に禁じるという意図で言っているわけではありません。
神権宣教学校の教科書にも、消極的な話題に一切触れないのは不可能であり、望ましい事でもないとあります。(「神権宣教学校の教育から益を得る」 第34課 「積極的で,人を築き上げる」の「消極的な事柄を限定する。」を参照。)
JW Broadcastingの朝の崇拝の動画、「ゲリト・レッシュ:恨みを抱いてはなりません (コリ一 13:8)」の中でも、「信頼できる友以外の人に、自分の恨みの気持ちについて話してはなりません」と語られており、親友に語ることさえあってはならない、とまでは言われていません。

 「消極的な話題に一切触れない積極的な話」は、「表面的な話」になってしまいます。
そういった、表面的な会話を交わしているだけでは、兄弟姉妹と親友になることはできませんし、感情的に満たされることはないでしょう。
清廉潔白で強い信仰を持ったクリスチャンでありたいと願ってはいても、そう簡単にはいかないのがアダムから受け継いだ罪と言うものです。
罪深い行為や感情を肯定したり開き直ったりはしませんが、そういった弱さについて語ること自体が禁じられていると考える必要はありません。

 もしだれかが、ネガティブな感情を吐露した時に、それを咎めてしまうなら、その人の最後のSOSのサインを無視することになってしまうかもしれません。
二人きりで話しているなら辛抱強く耳を傾けることができますし、大勢の人がいる場所で話そうとしているなら「あとでゆっくり聞くよ」と言ってあげることもできるでしょう。

女性の性の問題について取り組むカウンセラーの姉妹の話

 ある既婚の姉妹が、カウンセラーになろうとして勉強を始め、長老にアドバイスを求めました。
すると長老はその姉妹に、「女性の性について」のカウンセリングのプロフェッショナルになってほしいと語ったそうです。
私はその長老と直接話したことがないので推測するしかありませんが、おそらく、長老であっても立ち入りにくいテーマについて、その姉妹にプロのカウンセラーとして活躍してほしいと思ってのことだったのでしょう。
こういった働きはエホバの証人社会内で必要とされており、実際にその姉妹は、性被害の体験を持つ姉妹などの相談に乗っています。
あまりお金にはならないようで、専門的な知識はあるけれど、仕事としてというより、友として支えているという感じです。
円熟した姉妹が若い姉妹たちをこのようにして支えることは、テトス 2:3-5の聖句にも適ったことであり、立派な働きだと思います。

親友がいないとどうなるか

 親友がいないエホバの証人は孤立します。
そんな時に、エホバの組織内で不条理な体験をすると、エホバに対して批判的になってしまったり、「どうしてあの人は○○してくれないんだ」という思考に陥ってしまったりしがちです。
あるいは、エホバを悪く言わず、だれに対しても不満は言わなくても、自分を責めるようになってしまうタイプの人もいます。
今、メディアでエホバの証人についての否定的な発言をしている元信者の中には、「エホバの証人だった時、何でも語り合える親友がいなかったのかな」と思えるような人もいます。
何でも話し合える親友がいないエホバの証人の場合、エホバの証人の姿とは、集会や奉仕やものみの塔出版物に書かれていることや時々行われる食事会での振る舞いが全てです。
ものみの塔出版物には組織の公式見解しか載りませんし、王国会館も聖書伝道も公共の場ですから、エホバの証人はそのことを自覚して振舞います。
食事会や音楽会などは公共の場ではないとしても、大勢の人がいるならセンシティブな話はしないでしょう。
親友がいないエホバの証人には、エホバの証人の一つの側面しか見えていないことでしょう。なおかつ当人は、そのことに気付いていないはずです。これはけっこう深刻な問題だと思います。

 エホバの証人は、無教会派のような考えを退けます。
そのような考え方はヘブル 10:24-25などの聖句と調和せず、非聖書的だからです。
ひたすら聖書を読んで祈り、エホバとの関係だけで救いを達成することはできません。
組織と交わることや仲間を愛する事やキリストの兄弟たちを支持することも聖書的な要求事項であり、エホバの家族から孤立してはなりません。
そして、組織と交わるというのはただ集会や奉仕に出席するという事ではなく、親友を持つということでもあります。
親友を持たない限り、本当の意味で信仰を理解することはできないと思います。
弱さや不完全さをさらけ出せる人がいるからこそ、本当の意味での信仰のあり方や、試練への立ち向かい方なども見えてくるはずです。

親友がいなくて悩んでいる場合

 親友がほしくてもなかなかできなくて悩んでいる方もいらっしゃるかと思います。
エホバの証人は基本的にみんないい人たちですが、その中でも認識の違いなどもあり、「いい人たちの中から本当に信用できる人を探す」というのはけっこう難しい作業です。
かつてだれかに秘密をばらされてしまって深く傷ついたことがあるという経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
この点で、本当に信用できる人かどうかを見極めるには、相手を見ながら、まずは当たり障りのないことから話、少しずつ深い話をしていくという方法が効果的です。
時々、最初からあまりにもセンシティブなことを相手に話してしまって失敗してしまう人がいますが、大切なのは相手の出方を見ながら本当に信用できる人かどうかをみきわめるということです。
(「目ざめよ!」2004年12月8日号の「友達がほしいという欲求を満たす」という記事の「心を打ち明けてください」という見出し以下参照。)

 辛抱強さが求められ、もしかすると時間もかかるかもしれませんが、いつかきっと良い友達に巡り合えるはずです。

この記事で言いたかったこと

 この記事を通して伝えたかったメッセージは、親友を持つのは精神衛生上良いことだ、というだけの話ではありません。
神に近づき、神を知り、真の信仰を実践するうえで、親友の存在は不可欠なのです。
親友を作りたくてもなかなかできない場合は、報いてくださるエホバを信頼し、努力を続けることができます。
しかし、もし意識的に孤立の道を選んでいる人がいるとしたら、それは危険な事であり、信仰を危険に晒す行為です。
ありのままの自分を見せ、語り合える親友がいて初めて見えてくる信仰の姿があります。
孤立してしまってきた一人でも多くの兄弟姉妹に、そのような経験をしてほしいと願っています。

原則と例外

 私はこのブログの中で、原則を強調しつつも例外の存在をいろいろと指摘してきました。
そうするに当たっては、その聖書的な根拠を示してきたつもりです。
この記事もそういうことを書いており、これからもそういった記事をいくつも書いていくことになるでしょう。
原則の中には、ものみの塔出版物中で頻繁に取り上げられるものもあれば、めったに取り上げられないものもあります。
兄弟姉妹の中には、よく強調される原則を機械的に適用する傾向があり、その点が少し引っかかっています。
もちろん、例外を強調し過ぎるのもよくないのですが、兄弟姉妹が、原則の優先順位を考え、様々な聖書中の事例に通じ、バランスの取れた判断ができるよう願っており、このブログがいくらかの助けになればと思っています。(「聖書の原則を正しく当てはめるには」という記事もご覧ください。)
jw.orgにある「『自分を神の愛のうちに保ちなさい』」という本は、この点でとても助けになると思います。
いろいろな原則を導きにして、バランスの取れた決定ができる助けになるはずです。
また、朝の崇拝の動画やギレアデ学校の卒業式での講話の動画もためになります。
より判断の難しい状況で、ちょっとマイナーな聖書中の事例を持ってきて教訓を当てはめるような話がいろいろあります。
さらに、「洞察」の本やその他の出版物の、聖書中の人物について取り上げた資料なども読み込むと良いです。聖書中のいろいろな物語から、信仰の手本や警告の例、原則の当てはめ方などについて多くを学べるはずです。
そして、ものみの塔出版物を読むときに、記事や見出しの題名になっているような主要な考えを記憶するだけでなく、但し書きのような例外的な情報についても、きちんと押さえながら読んでいくのがいいと思います。
バランスの取れた判断力を身に着けるには、そのような読み方や考え方は必須です。


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