エホバの証人ブログ-jw一般信者タピコの視点から

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 エホバの証人に関する話題を、一人の一般信者の素朴な視点から綴り、感想や観察を述べていきます。

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適度な飲酒量とは´「原則と良心」という語を多用する危険

 エホバの証人は、聖書の教えに沿った生き方をしたいと願っています。
聖書は神の言葉であり、人を導く本だと考えているからです。
聖書は3500年前から2000年前にかけて書かれましたが、聖書に込められた神の知恵は、様変わりした現代社会に生きる私たちにも役立ちます。
すでにこのブログでは繰り返し書いてきた通り、聖書の原則を適用するという考え方によって、エホバの証人は2,3000年前に書かれた教えを現代に当てはめようと努力しています。
「原則」を「法の精神」と言い換えることもできます。
例えば、モーセの律法の中にこのような規定があります。

 26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。
27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。
´出エジプト記 22:26-27、口語訳旧約聖書、1955年版、日本聖書協会、引用はウィキソースから。

 原則を適用するという考え方で聖書を読むなら、この聖句はありとあらゆる状況に適用可能です。
他人の衣服を質物として預かっているという状況だけでなく、この律法に込められている精神´「経済的弱者(ひいては、ありとあらゆる意味での弱者)の弱みに付け入ってはならない」とか「思いやりをもって他人に接するべきである」といった教訓´は、ありとあらゆる場面で役立つものです。
「私は質屋ではないからこの律法は私には関係ありません」などということは言えません。
このようにして、聖書から、法の精神を読み取ってそれを実生活で実践しようとするのが、エホバの証人の良いところです。

 規則を守ることしか考えていない人は、言われたことは守りますが、規則がないことについては自分の頭で考えることができなかったり、規則さえ守れば何をしても良いと考えていたりします。
原則と良心を導きに決定を下せる人は、「だれのために、何のために行動するか」をいつも考えており、規則や指示が与えられていなくても聖書の考え方に則って適切な判断ができます。

 かつて、日本のエホバの証人社会では、こういったキリスト教の精神が正しく理解されておらず、規則を量産して他人に押し付けるパリサイ派のような人たちが問題を引き起こしていました。
そういったカルト会衆が各地にあった、という点については、宮原崇兄弟が「ヨハネ 14:9」の項で書いておられるとおりです。
しかし、組織としてこの問題に真剣に取り組んだ結果、今はそのようなエホバの証人は激減しました。(「長文: エホバの証人の体罰問題について(その3)」参照。)
この点でエホバの証人組織が払った努力は素晴らしいものだったと思います。
(この記事は、兄弟姉妹向けですので、これ以上の詳細な解説は省略します。さらに詳しくお知りになりたい方は、末尾の「おすすめリンク」から諸資料をご参照ください。)

弊害

 さて、前置きが長くなりましたが、「原則と良心に基づいて決定しましょう」ということを20年以上強調し続けた結果、いくらかの弊害も出てきています。
それがこの記事のテーマです。

「規則を作ってはいけない」が一つの規則になりつつある

 最近では、「規則を作ってはいけない」というのが一つの規則になりつつあります。
とはいえ、組織を円滑に機能させるために規則が必要な場合もあります。
長老たちには、会衆内でそのような規則を作る権限がありますから、規則を作ることをことさらに避ける必要もないと思います。
規則を作る際に大切なことは、「これは組織を円滑に機能させるための規則なんですよ」ということをきちんと伝えるという事です。
変に聖書の言葉を引用して聖書的な裏付けがあるかのような印章を与えるのではなく、「便宜上設けられている規則だから、状況を見つつ今後変更することもあるかもしれないが、協力してもらえると助かる」という言い方がベストです。

 また、家族の頭には長老以上に踏み込んだ規則を作る権限があります。
子供に対して、特定のアニメやテレビ番組を禁止するなどです。
家族の頭はこういった権限を乱用してはなりませんが、権限の行使をためらう必要もありません。
子供の年齢や成熟の度合いに応じて規則を作ったり変更したり廃止したりしながら、ゆくゆくは子供が聖書の原則と良心に基づいて賢明な決定ができる大人になれるよう助けるのが親の役目です。
規則を乱発したり子供の意見を聞かずに規則を作ることは勧められていませんが、規則を作ること自体をためらう必要はありません。

助言することをためらう長老たち

 長老は、自分の良心を押し付けたり規則を量産して会衆の成員をがんじがらめにしたりすべきではありませんが、会衆の成員が明らかに不適切な決定をしている場合に、助けの手を差し伸べるのを控えることも、それはそれで愛のないことです。
「私的なことに介入すべきでない」とか「自分の良心を押し付けてはならない」という原則がある一方で、「弱っている人を助ける」とか「迷った羊を探しに行く」というのも聖書の教えです。
状況に応じて、どちらの原則を採用すべきか、どちらの原則を実践したほうがトータルで考えた時にメリットが大きいかを判断しなければなりません。
霊的な命がかかっているような状況なら、「私的なことには介入しない」などと言っている場合ではありません。
後日別の記事に書きますが、相反する複数の原則がある場合、一番大きな法益※を守るための行動を取るというのがベストな選択です。

(※ 「法益」という言葉については、こちらの記事で簡単に説明しています。「あれから29年´ホテルニュージャパン火災の最高裁判決は日本社会をどう変えたか」)

友達の「霊的な危機」に疎くなってはいないか

 長老だけではありません。全ての一般信者に対しても同じことが言えます。
「友達の霊的な健康を、どれほど真剣に気にかけていますか」という話しです。

 何かの理由で一度集会に出席できなかった人がいただけで、その人のことを裁いたり信仰が弱くなったと決めつけたりすべきではありません。
今はそんなことを言うエホバの証人はほとんどいないと思いますが、逆の問題も起きています。
だれが集会に来ていて、だれが来ていないか、といったことをそもそも気に留めていなかったり、気付いたとしても心配しなかったりするのです。
しかし、集会と言うのはクリスチャンにとって信仰を維持するうえでの必須のライフラインですから、集会を休んでいる仲間のことを全く心配しないというのは不適切です。

 集会を休みがちな仲間に対する正しい態度とはどのようなものでしょうか。
それは、その人を裁いたり糾弾したり動機を決めつけたりせず、まずはその人の事情を理解しようとすること、そのうえで、その人を遠ざけたりせず、信仰が弱っているなら手を差し伸べて助けることです。(「エホバの証人の体罰問題´兄弟姉妹へのメッセージ(その5)」 「『憐れみのないエホバの証人』問題」参照。)
もしその仲間が、親友がいなくて支えを受けられずにいるなら、こちらから近づいて親友になってあげることができます。

 「あの人は認識が欠けている」などと言ってすぐに仲間の動機を決めつけて裁くのは良くない事ですが、「良心の自由があるから」などと言って弱っていく人に助けの手を差し伸べないのは聖書的に言って愛のないことです。
これには、「信仰が弱くなることは恥である」という見方が関係しているように思います。
実際には、信仰が弱くなるというのはいつだれに起こるかも分からない事であり、「困った時はお互い様」と思って支え合っていくべき問題です。
「信仰が弱くなることは恥である」という見方をしている限り、本人は周囲に助けを求めることをためらってしまいますし、周囲の人たちはテモテ第二 2:20-21を不適切に適用して、助けを必要としている人からむやみに距離をおいてしまうという問題はなくならないでしょう。

 集会を休みがちな仲間に対しては、できていないことを咎めるという言い方ではなく、友として支えになりたいという愛や同情心をもって近づくことが大切です。

原則の当てはめ方が明らかに間違っている場合、それに気付き、指摘できるか

 「禁止事項はたったの14項目´エホバの証人のルール」と題する先日の記事の中で私の学生時代の実体験について書きましたが、個々のケースを見てみると、エホバの証人一人一人で判断が別れるというのはよくある話です。
ある人は問題ないと思えることであっても、別の人は良心上引っかかるものを感じるという事もあり、その場合にはお互いに自分の良心を押し付けず、相手の判断を尊重することが求められています。
しかし、いくら「他人を裁かない」と言っても、原則の適用の仕方が明らかに間違っているというケースもあります。
そんな時に、その間違いに気付けるでしょうか。
気付いたとしてもそれを相手に言うかどうかは別問題ですが、気付けるか気付けないかは大きな違いです。

 極端な例ではありますが、サタンでさえも、イエスを誘惑する際に聖書の言葉を引用しました。(マタイ 4:6)
だれかが明らかに間違った聖書解釈をしている場合、あなたはその誤りを見抜けるでしょうか。
それとも、「へー、そういう考え方もあるんですね」などと言って無警戒に受け入れてしまうでしょうか。

具体的な数字を挙げて助言したりルールを設けたりするのはいつでも不適切なことなのか

 いまだにエホバの証人のことを規則を乱発する戒律主義者だと勘違いしている外部の人は多く、そういった誤解を正すために、jw.orgには「エホバの証人の間で禁止されている映画や本や曲があるのですか」といった記事が用意されています。
この資料にもあるように、聖書の原則を導きとしつつ賢明な決定ができるクリスチャンになることが重要です。
ですから、例えば長老が具体的にテレビ番組の名前を挙げて「これを観るのはよろしくない」とか、商品名を挙げて「これを買うべきではない」などと語るのは不適切な事と考えられています。
上述のとおり、それはキリスト教の精神に反する事であり、聖書を踏み越えた表現と言えるからです。
しかし、具体的な表現を用いて助言を述べることはいつでも間違ったことなのでしょうか。
この点について考えてみましょう。

例題: 飲酒の「適量」とはどれくらいか

 ここで、例題として、飲酒の「適量」とはどれくらいなのかについて考えてみましょう。
「いつまでも幸せに暮らせます 楽しく学べる聖書レッスン」の「レッスン43 クリスチャンはお酒を飲んでもいい?」には、聖書は飲酒を禁じておらず、お酒はエホバ神からのプレゼントだけれど、酩酊は禁じられている、といったことが書かれています。
この資料はつい最近「クリスチャンとしての生活と奉仕」の集会の会衆の聖書研究で取り上げられました。
おそらく皆さんの会衆でも、ディスカッションの中で、「どこからが飲み過ぎなのか」といった点が問いかけられたことでしょう。
これに対する聖書的な答えは、「禁止されている食べ物はあるか´エホバの証人に関する質問」という記事にも書いたように、明晰な思考力が維持できなくなったらそれは飲み過ぎである、ということになります。
まっすぐ歩けても、周囲の人がだれも気付かないとしても、飲まなければ言わなかったようなことを言ってしまったり、素面であればしなかったような決定をしているとしたら、それはもはや聖書的な意味での「飲み過ぎ」に該当します。

 こういった話をする時に、「何杯以上飲んではいけない」といった具体的な数字を出すことは慎むべきと考えている人もいます。
それは、原則と良心に基づいて各人が個人的に決定するという理念に反すると見なされているからです。

 でも、考慮すべき点は本当にそれだけなのでしょうか。
良心の咎めを感じず、明晰な思考力を維持しており、周囲に躓く人がだれもいなければ、いくら飲んでも問題ないのでしょうか。

「原則と良心」以前の知識の問題

 聖書の原則と自分の良心と体質と周囲の人たちの良心以外にも考えるべきことがあります。
それは「知識」です。
ここで言う知識とは、聖書の知識のことではなく、健康に関する一般常識のことです。

 日本人の成人男性(65歳未満)のうち、アルコールの代謝に問題がない人(体質的にアルコールが分解できて、内臓が弱っていない人)の場合、習慣的に飲み続けていても問題がない飲酒量は、純アルコール量換算で、一日平均20グラム程度までと言われています。(「厚生労働省 健康日本21(第二次)」)
これにはいくつもの但し書きがあります。

  • 少量の飲酒で顔面紅潮を来す等アルコール代謝能力の低い者では通常の代謝能を有する人よりも少ない量が適当である
  • アルコール依存症者においては適切な支援のもとに完全断酒が必要である
  • 飲酒習慣のない人に対してこの量の飲酒を推奨するものではない

 また、高齢者はこれより飲酒量を減らすように言われています。
女性は、肝臓が男性より小さい事に加え、女性の肝臓は日々大量の女性ホルモンを処理しなければなりませんので、女性のアルコールの分解能力は男性の2分の1から3分の1と言われることがあります。
また、どれほどの量、どれほどの期間飲酒するとアルコール依存症になるかについては、女性は男性の半分ほどの量・期間で依存症になる危険があると言われています。
さらに、上記の厚生労働省の指針とは別に、最近では認知症予防の観点から、「一日当たり12.5グラムまで」と言われたりもしています。

 肝機能が正常で体質的にお酒が飲める成人男性(高齢者除く)の場合、アルコールの分解能力は、1時間当たり「体重×0.1グラム」と言われています。
体重60キログラムの場合、1時間に6グラムのアルコールが処理できるということです。

 純アルコール量は次のように計算します。

お酒の量(ml) × アルコール度数 × 0.8

 例えば、500mlのお酒で度数4%の場合、 500×0.04×0.8 で、純アルコール量は16グラムということになります。
体重60キログラムとすると、酔いが覚めるまでには2時間40分かかることになります。
健康診断で肝機能の衰えを指摘されている場合には、時間はもっとかかるでしょう。

 最近では、「安くてすぐ酔える」などとして、度数の高いお酒が売られています。
コンビニやスーパーでよく見かける、ストロング缶などと呼ばれるものです。
500mlで度数9%というものもあります。
瓶ではなく缶なので、一度開けると蓋ができません。
先ほどの計算式に当てはめると、 500×0.09×0.8 で、純アルコール量36グラムということになります。
厚生労働省の指針で一日当たりの節度ある飲酒量とされている量の1.8倍ものアルコールが含まれているのです。

 このストロング缶を一日2本飲んだらどうなるでしょうか。
純アルコール量にして72グラム摂取することになり、これは一日60グラム以上の「多量飲酒」に該当し、比較的短い期間で依存症を引き起こす水準です。
肝機能が正常であったとしても、アルコールを分解するにはかなり時間がかかり、体重60キログラムでも12時間はかかります。
夜にストロング缶を2本開けたら、次の日のお昼前くらいまではずっと「酔っぱらった常態」であり、車の運転や機械の操作はすべきでないと言えます。
高齢者や女性、小柄な人、肝機能が衰えている人の場合、分解までに24時間以上かかることもあり得ます。
そのような人の場合、ストロング缶を毎日2本飲んでいたら、「年中酔っぱらった常態」と言えます。

 たくさんお酒を飲んだとしても、顔が赤くならない人、意識がはっきりしている人と言うのもいます。
しかし、そういった「お酒に強い人」であったとしても、生物学的な意味での肝機能の個体差と言うのはそこまで大きいわけではありません。
本人が「酔っているな」と感じなくても、内臓は確実にダメージを受けているという事はあります。

 このように、聖書の原則と良心だけでは賢い決定はできず、予備知識と言うのも重要な要素になってきます。

「適度な飲酒量」を考えるうえで憶えておきたいポイント

  • 純アルコール量は 「ミリリットル×度数×0.8」 で算出できる
  • 正常な代謝能力のある成人男性(高齢者除く)の節度ある飲酒量は、一日平均20グラム程度以下
  • すぐに顔が赤くなる人、高齢者、女性はそれより控えたほうが良い
  • 認知症予防の観点からは、「一日12.5グラムまで」とも言われている
  • アルコール依存症の人には断酒が勧められており、妊婦も飲酒を控えることが勧められている
  • 飲酒の習慣がない人は一日20グラムのアルコールを摂取することを目標にする必要はなく、そのままでよい
  • 生活習慣病を避けるため、男性は一日40グラム、女性は一日20グラムを越えないようにするのがよい
  • 一日60グラムのアルコールを摂取すると「多量飲酒」に該当し、比較的短期間でアルコール依存症になったり内臓を傷めたりする危険が高くなる
  • 体質的にお酒が飲めて、肝機能に異常がない成人男性(高齢者除く)がアルコールを分解する能力は、1時間当たり「体重×0.1グラム」

「原則」と「良心」という語を多用することの危険

 例題はいかがだったでしょうか。
聖書の原則と自分の良心に基づいて決定し、他の人の良心にも配慮して行動することは大切ですが、「原則と良心」以外にも考慮すべきことや知っておくべき知識があるという点がお分かりいただけたかと思います。

 この、「原則と良心」という語を不適切に多用するという風潮については、ずっと以前から引っかかっていました。
原則を適用する際に文脈剥離が起きていたり、そもそも良心が聖書によって訓練されていなかったり、原則と良心以外の要素が考慮されていなかったりということが多々あるからです。

 文脈を考慮せずに原則を適用しようとすると、抽象的な原則を抽象的に捉えて無制限に適用してしまう、地に足が着いていないふわふわした聖書解釈をすることになってしまいます。この危険に対する注意喚起として、「文脈における意味と原則の適用の両方を考えて聖書を読む」という記事を書きました。
そして、聖書の諸原則には「適用の優先順位」があります。この点について説明したのが、「聖書の原則を正しく当てはめるには」という記事です。

 さらに、良心的ではあっても、その良心が聖書によって訓練されていないなら、正しい決定などできません。良心的決定とは、直感やフィーリングで決めるという意味ではありません。この点を示すため、「良心よりも大事なもの」という記事を書きました。

 原則にも良心にも、それがふさわしく機能する要件があります。
文脈における意味聖書全体を貫くエホバのお考えの全体像を無視して原則を適用しても、正しい決定はできません。
聖書の言葉の優先順位を考慮せずに思いついた原則を場当たり的に当てはめているだけでも、やはり正しい決定はできません。
聖書によって訓練せず、文化や教育的背景の影響を受けるままにしていたら、良心は正しく機能しません。
原則には前提条件や優先順位があり、良心には限界があります。

 こういった問題を放置してしまうと、聖書からの逸脱が起き、なおかつ長老がその問題点を指摘することを躊躇してしまう(あるいは全く気付いていない)としたら、聖書の言葉を間違って当てはめる行為が横行することになります。
もちろん、「殺人をしてもかまいません」などという基本的な律法に反することを言えばだれでもすぐにその間違いに気付くことでしょう。
しかし、原則を間違って当てはめるという行為は気付かれにくく、手を打たなければ私が以前の記事で述べたような、別の宗教の実践を容認することとなり、これはとても危険です。(「『疑問を抱くのは悪いこと》´元信者にありがちな心理状態、考え方、勘違い」という記事をご覧ください。)
「日本のエホバの証人コミュニティで、体罰が常態化してしまった背景」という記事にも書きましたが、原則の当てはめ方を間違えて見当違いな助言を与えるというのは長老もやってしまいがちな失敗です。
私はこの点で、長老たちを手厳しく批判するつもりはありません。こういった失敗はだれにでもあるからです。
むしろこれは、長老の助言を聞く一般信者一人一人が耳を鍛えなければならないという話です。

 「原則と良心」という語を不適切に多用するなら、聖書からの逸脱を招き、身勝手な聖書解釈がまかり通るということが起こりかねず、そういったことはすでにあちこちで起き始めています。
ユダの手紙の中で警告が与えられているような、悪意を持った偽兄弟はいたとしても少数だとは思いますが、「なんとなくみんなで悪意なく聖書の教えを踏み越えてしまう」といった種類の背教には、目を光らせて警戒を怠らないようにしなければならない、と私は思います。

正解は一つではないが、なかには明らかな不正解もある

 良心上の決定には正解がいくつもあります。
血液分画を全て受け入れるという決定もあれば、部分的に受け入れるという決定もあれば、全面的に受け入れないという決定もあり、どれも正解です。
しかし、良心上の決定に正解がいくつもあると言っても、なかには明らかな不正解もあります。

 どんな娯楽を選ぶかは各個人や家族の頭の決定に委ねられていますが、それなら、何を観てもどんなことをしてもよい、長老は何も口出しすべきではない、ということになるのでしょうか。
もし、会衆内でハリーポッターを読んでいる人がいたら、長老は何も言ってはいけないのでしょうか。
その人に聖書からの助言を与えないことは、本当に愛があることと言えるのでしょうか。

 もちろん、統治体はそんなことは考えていません。
JW Broadcastingの「どんな遊びを選んだらいいんだろう」という動画では、暴力的なゲームをしていた主人公が友人から助言を受けるというシーンが描かれています。
しかも、助言を与えたのは長老ではなく奉仕の僕(援助奉仕者)の友達でした。
このビデオは、助言を受ける側が主人公になっていますが、助言を与える側の視点でも考えてみてください。
このビデオに限らず、娯楽の選び方などの個人的な決定に関して助言を与えるというのは動画や雑誌の中でよく描かれることで、全ての人にはこのような聖書からの助言が必要であると、聖書そのものが述べています。
また、上述の「適度な飲酒量」についても、米国の保健当局の資料からの引用として、地区大会のプログラムの中で具体的な量が示されたこともあります。

 個人的な決定には多様性があります。しかし、多様性があると言っても「何でもあり」ではありません。
正解は一つではありませんが、明らかな不正解もあり、それを知りながら愛する仲間に助けを差し伸べないのは無情で愛のない行為です。
『見えるところによってではなく,信仰によって歩む』の動画の後半で、エルサレムに帰ろうとするナハムと彼を引き留めようとするシェベルが激しく言い合う場面が出てきます。(39分02秒頃から)
この時ナハムは、旧約聖書の例に言及して、それなりに“聖書的根拠”と思えるものを挙げて、エルサレムに戻ることを正当化します。
ついにシェベルはナハムに対してはっきりと「君は間違っている!」と言います。(43分37秒頃から)

 私はこの動画を観た時、友達が信仰の危機に直面していて、命がかかっている状況にある場合に、これほど強く訴えかけて何とかして助けようとするだけの愛があるだろうか、と考えさせられました。

「相対主義」の影響を受けないようにする

 クリスチャンは世間一般と異なり、神の律法を公然と無視するような態度は避けます。
人工妊娠中絶や同性愛を受け入れたりはせず、聖書がはっきり禁止している行為は避けます。
しかし、聖書がはっきり禁止していない行為に関して、「原則と良心」という言葉を不適切に多用して、「聖書が禁止していないものについては何を選んでもかまわないんだ」と言わんばかりの「エホバの証人的相対主義」に陥らないよう注意する必要があります。
聖書にもものみの塔出版物にも具体的な作品名を挙げて「この映画は避けなさい」などと書かれていないのは、エホバが私たちの自由意志を尊重し、良識を信頼してくださっているからです。
その自由意志をどのように用いても良いとか、どんな娯楽を選ぶかは些細な問題だとかいう意味ではありません。

 日本のエホバの証人コミュニティでかつて、長老が個人的な問題に不適切に干渉していたことがあるとか、あれはだめだとかこれはだめだとかむやみに規則を作って広める人が問題を引き起こしていたというのは事実です。
その点を反省して改革を行った組織とそれに応じた信者の努力は立派なものだと思います。
しかし、今は逆の極端に走っている人もおり、霊的な危険に直面している人に助言を一切与えないという光景が見受けられることを、私は心配しています。

 選択の自由はありますが、明らかに不適切な選択をしてクリスチャンとしての道に迷っている仲間がいるなら、その人を断罪するという意味ではなく助ける目的で近づき、友として支えるのが愛というものです。
規則を乱発してはいけませんが、具体的な助言を与えることを躊躇する必要もありません。
自分が与えようとしている助言が個人的な意見ではなく聖書に根差したものであるという事をきちんと確認する必要はありますが、聖書から語る時、私たちはその友にエホバからの愛と気遣いを伝えていることになるのです。

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「文脈における意味と原則の適用の両方を考えて聖書を読む」  聖書を読む際には「文脈における意味」と「広げられた適用」の両方を考えることが重要である、という点を取り上げています。

「聖書の原則を正しく当てはめるには」  聖書の言葉には優先順位があり、ある原則はほかの原則に優先して適用されます。それを見極めるポイントについて書いています。

「良心よりも大事なもの」  良心的であるだけでは、クリスチャンとしては半人前です。良心を聖書で訓練することの大切さと、良心の限界について書きました。

「排斥処分は残酷である、という報道を受けて´排斥処分に関する聖書的な解説(一部私見を含みます)」  冒頭で、エホバの証人が聖書をどれほど重視しているかについて説明しています。

また、アーカイブページにある「『輸血を拒否するのが最善の医療かどうか』が真の争点になりそう」という記事もご覧ください。聖書の教えを現代に当てはめるエホバの証人の考え方について説明しています。「補足1」の「古代に書かれた聖書の教えを現代に適用するという考え方」という中見出し以下をご覧ください。

当ブログの参考記事

「長文: エホバの証人の体罰問題について(その3)」  最後に、原則と良心という語を多用する問題は過去の反動であると書きましたが、その「過去の出来事」について書かれています。

「あれから29年´ホテルニュージャパン火災の最高裁判決は日本社会をどう変えたか」  上野記事の補足記事です。

その他

検索エンジンで「ストロング缶 純アルコール量」などのフレーズで検索すると、ストロング系のアルコール飲料について注意を促す記事がいろいろと出てきます。

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